2010年05月17日

01:始まりの朝(6) >見果てぬ夢(仮)

 よし。
 気合を入れて、目の前の作業に取り掛かる。苦笑いが聞こえてきて隣に立つ悠貴に視線を向けると、金色の瞳が困惑した眼差しで見下ろしてきていた。不思議に思いながらその目を見つめ返す。
「そんなに力を入れてやることじゃないですよ。肩の力を抜いて」
「はっ、はい!」
「いえ、ですから――」
 ぐしゃ。
「あっ」
 手のひらで感じた潰れた感覚。
 開いてみれば、それはばらばらになっていた。指の隙間をヌルヌルとした液体が滴り落ちていく。これが、あの。
 生を見たのは初めてで、新鮮だった。いつも目の前に出されていたのは、きちんと調理されたもの。白身がこんなに透明なものだとは思わなかったし、なにより殻がこんなに容易く壊れるものだったなんて。
 手のひらで潰れた卵を見つめていると、一枚の白い紙が降ってきた。ティシュにしてはごわごわしている。
「キッチンペーパーで拭いて下さい。手を洗って、もう一度やってみましょう」
「はいっ」
 悠貴の言葉に返事をして、言われた通りキッチンペーパーに失敗した殻を包んで、手を洗った。もう一度、卵を手に取る。
「気合は入れないで、軽く数回叩いて、優しく割るんです。こんなふうに」
 そう言って、悠貴は容易く卵を割って見せた。
(やってるところを見てるだけなら、簡単そうなんだけどなぁ。)
 もう一度、見よう見真似でやってみる。
 軽く、優しく――。
 ぐしゃ。
 割ろうとした時点で、殻が潰れて黄身の中に入り込む。取り除こうにも、小さな欠片は完全に取れないから、もう一度。
「わっ、できた!」
 やっと殻がきれいに半分に割れた。ボールの中には白身と黄身が丸く入ってる。嬉しくなって振り向くと、悠貴が口元を緩めて頷いてくれた。それは微かに微笑んでいるとわかる程度の表情の動きだけれど、十分に喜んでくれていることが伝わってくる。
「よくできましたね。次はフライパンを温め、油を――」
 言われた通りの手順をぎこちない動きながら、どうにか進めていく。
 卵を焼いていると、どんっと背中に衝撃を受けた。
「キリちゃんっ!」
 ぎゅっと腰に回る小さな手。強い力で抱きつかれているせいで振り向くことができずに、首を少し捻って、下を見る。
「おはよう、陽菜」
「おはよー。キリちゃん。なにしてるの?」
 挨拶を返しながら、戸惑った表情で見上げてくる陽菜の瞳を幸せな気分で見つめ返しがら右手に持っている菜ばしを振る。
「ずっと、陽菜にご飯を作ってあげたかったの」
 ぱっと陽菜の顔が笑顔になる。
「ほんとうに?」
「うん。約束したでしょ。私がお弁当を作って、陽菜はお菓子を準備して一緒にピクニックに行こうって」
 霧華があの場所から出られたら。
 陽菜と約束したことを叶えていきたいと思ってた。それが唯一、霧華を生かしていた希望だった。
「おいおい……。俺たち男がいるってのに、女同士でいちゃつくなよなぁ」
 呆れたような声が割り込んできて、視線を向けるとあくびをかみ殺し、眠そうな顔の巴が頭をかきながらキッチンの入り口を塞ぐように立っていた。
 パジャマ代わりだったのか着ている白い半袖のTシャツは皺だらけ。黄土色の短パンも普通のひとならだらしなく見える服装なのに、なぜか野生的というか、これからサバイバルに向かいそうな雰囲気で、ぴったりと似合っていた。朝から、皺ひとつない高価な長袖の白シャツ―料理をするために、腕はまくっているけれど―と黒ズボンを乱すことなくキレイに着こなしている悠貴とは相変わらず対照的だ。
 ふと、巴が不思議そうに首を傾げる。
「そーいや、明は? 料理なら悠貴に習うよりあいつがいいんじゃねぇの?」
「明君なら、水城家本家に行ってもらってます。少し用事を頼んだので」
 即座に応じた悠貴の言葉に、ぴくりと巴の片眉が跳ね上がった。それから何かを推測したように口元が愉しげに歪む。
「ふーん、そういうことねぇ」
 意味深な眼差しを向けられて、霧華は戸惑う。
(え? なに?)
 悠貴の頼みで明が水城家本家に行ったことと、私と、どう結びつくのかまったくわからない。
 意味がわからなくて、陽菜を見る。
 彼女もわからないのか、不思議そうな顔をしていた。悠貴に聞こうと視線を向けると、彼はマイナス温度を身に纏い、巴をじっと見ていた。視線に気づくと、ハッと冷たい雰囲気を消し去る。
「なんでもないですよ。さぁ、続きを作りましょう。陽菜さんは顔を洗ってきて下さい」
「う、うん……」
「はぁい」
 戸惑いながら、彼の言うまま頷く。
 陽菜は慣れているかのように素直に返事をしてキッチンを出て行った。

「……凍りつくかと思った」
 一方的に無視された巴がぼそりという声が聞こえた。