――――― たった一言でいいのに。
アルセリアは湖の辺に膝を抱えて座り、その水面に映る自分の顔を見ながらため息をついた。
たった一言。でも、その言葉を思い浮かべただけで、泣きそうになる。
風が囁くように吹き抜けていく。
思わず、笑みが浮かんだ。
「ありがとう、慰めてくれて。でも、だいじょうぶ!」
目の端に浮かんでいた涙を拭いて、立ち上がる。
そろそろ、アルベルトが探しに来る頃。
「強がりでもいいの。意地っ張りでも、我侭だって。そうすることができるだけの、元気を下さい」
アルセリアはそう言って、大きく深呼吸する。
森の木々が紡ぎだす空気は、いつも悲しい気持ちを吹き飛ばしてくれた。
だから。
だから、だいじょうぶ。
アルセリアは頷いた。自分に言い聞かせるように。
「 ―――― ここにいたのか、」
案の定、アルベルトが姿を見せた。
アルセリアは声がする方に振り向いて、何度も頭の中で練習したように精一杯の笑顔を浮かべて、浮かべようとして ――― 。
「アルセリア?」
急に抱きついてきたアルセリアに戸惑うようにアルベルトが名前を呼んだ。
(顔を見た途端、泣きそうになるなんて……。)
アルセリアは叱咤する。
それでも自分の顔がアルベルトを見た瞬間、笑顔ではなく、くしゃりと歪んでいくのを感じた。だから、抱きついて見られないように顔を埋めた。
「具合でも悪いのか? 何かあったのか?」
優しいアルベルトの気遣いが胸に沁み渡る。アルセリアの心を暖かく包み込んでいく。
落ち着いていく心を感じながら、アルセリアは思い切って顔をあげた。
アルベルトと目が合う。自然と笑顔が浮かんだ。
「 ――――― 行ってらっしゃい」
そのたった一言に、アルベルトがギョッと驚いた顔をする。
「アルセリア?!」
「私は大丈夫だから、行ってきて。ね?」
今までだって、何日間か離れて過ごすことはあったし、幼い頃はずっと別々に暮らしていた。
今更 ――― 。そう今更なのに。
今まで離れるときにはなかった不安がまだ胸の奥で変わらずに燻っていたけれど、アルセリアはそう自分に言い聞かせることにした。
「そのかわりすぐに帰ってきてね。美味しいご馳走を作って待ってるから」
嫌な予感はアルベルトも感じていた。
今まではなかった類のもの。
けれど、不安げに揺れる光を瞳に宿しながらも困らせないように精一杯の笑顔を浮かべようとするアルセリアの気持ちを無碍にもできなかった。
このまま傍にいても、アルセリアの罪悪感を重くするだけになる。たとえ、どんな言葉をかけたとしても。わかっていても、今はどうしても離れる気が起きなかったのも確かだった。
アルベルトは大きく息をついた。
「…………わかった」
仕方なく頷いて、それでも譲れない境界線を張る。
「そのかわり約束してくれ。森の出入り口になる境目には行かないと」
本当は森にさえ出て欲しくない。
屋敷の中にいて欲しいが、そこまで閉じ込めておくこともできなかった。
願わずにはいられないが。
「うん、今回はちゃんと約束する。実験も、無茶なこともしない。大人しく屋敷でご馳走を作って待ってるから ――― だから、」
珍しく控えめなことを口にするアルセリアの唇をそっと指で止めて触れる。
「すぐ帰ってくるさ。いつもより急いで、2,3日中には必ず」
2,3日中 ―― 。それがどんなに無理なことかわかっていて、それでも有言実行なアルベルトがそう言葉にしてくれたことに、アルセリアは一瞬、不安が吹き飛ばされたような気がした。
心から笑顔が浮かぶ。
「行ってらっしゃい」
もう一度、今度は願いを込めて告げる。
『お帰りなさい』とすぐに言えるように ―――― 。
「ああ、行ってくる」
アルベルトも頷いた。
『ただいま』と言うために ――― 。
森の中では別れを惜しむようにひんやりとした風が走り抜けていった。