02:すれ違う想い
神帝会議の席には、主となる神帝、次期神帝、唯一神たちと、7大元老神たちが参加する。テーブルをずらりと囲い込んだ席の中央に居座る神帝の右側で、一通りの議論が落ち着くのを待って発言許可を得る。
「私はシスイとレイラを<誓言>として受け入れます」
ざわりと、会議場が騒がしくなる。予想はしていた。これまでどんなに勧められても、ザナン以外は受け入れなかったから。一気にふたりも受け入れるとくれば驚かれるのはわかっていた。同時に不満も生まれる。唯一神たちからも願書は出されていた。それなのに、そのふたりがなぜ、と。最初のザナン以外を受け入れないという姿勢だった頃はまだ、仕方ないという雰囲気もあったけれど、一度他の者を受け入れると、我もと口にする神々が現われる。
「全員を<誓言>にするわけにはいかないでしょう。それに今の体制を壊したくないので、地位ある神から選ぶことはしたくない。そうする以外で私に最も近しい者にすることにしました。温かく見守って下さると嬉しいのですが」
にっこりと微笑んで告げると、希望を見出していた神々が諦めたように肩を落とすのが見えた。隣で苦笑を零す神帝に気づいて視線を向ける。
「まあ。頑なに受け入れなかったおまえがようやく認めたんだ。邪魔はしまい。皆もそれでいいな?」
念押しのように神帝に言われて、他の神々は渋々のように頷いた。それを見て、ほっと息をつく。ほんの少し罪悪感に胸がちくりと痛んだけれど、もう決めたことだと誤魔化した。もうひとつ。承認を貰っておかなければいけないことがあると、意識を変えて。
「それから。私は今日から一週間ほど星回りに出掛けます」
再び、会議場が騒がしくなった。予定には組み込まれていなかったことで、神帝の機嫌が急降下するのが隣に座っていてびしびしと伝わってきた。元老神たちの顔も厳つく変化している。唯一神たちも驚いていたり、またかと眉を顰めていたり、どちらにしてもいい顔はしていない。
「ユーファ。予定にそのようなものはなかったはずだ」
「一週間も留守にするなど、次期神帝としてのお立場がわかっていない!」
神帝が窘めるように言うと同時に元老神のひとりが発言する。そう言われることは推測済みで持ってきていた書類をひらりとかざす。視線を巡らせながら、慎重に言葉を発する。
「自らが統制する星を知っておきたいのです。勝手に行くと邪魔が入りそうなので、きちんと報告していきます。日程はここに。これは次期帝神である私には必要なことだと考えていますので、意思を変えるつもりはありません」
毅然とした態度で告げると、しばらく沈黙が広がった。納得できないと不満が充満しているのを感じ取っていたけれど、それに押されるつもりはない。第一、執務室にこもって書類整理ばかりしてるなんてつまらな ――― 。
「書類整理がつまらないという理由じゃないようだな」
沈黙を破って声を発したのは神帝だった。見透かされないように、動揺を押し隠して心外だという表情を浮かべる。仕事です、と割り切ったように告げると、元老神のひとりであり、師でもある老師が、皺だらけの顔にある長い顎鬚を撫でながら、口を開いた。
「確かにユーファ様の言葉も一理ある。実際に見るのも役に立つじゃろう。神帝になって言われるよりはよい。ただし ―――」
賛同する意見にほっと胸を撫で下ろす。老師が許可を下すということは元老神の了承は得たと思ってもいいからだ。ただし、と続く言葉にまっすぐ老師を見る。普段はほっそりと閉じられている瞳が真剣な空気に変わると、開いて黄金色が覗く。その目に見据えられると、一瞬緊張が走る。
「ザナン殿にはユーファ様がいない間、<誓言>としてこちらで役割を果たしていただきたい」
思いがけない提案にはっと息を呑んだ。だけど、それも一瞬ですぐに微笑みを返して頷いた。
「<誓言>としてはレイラとシスイを連れて行きます。ザナンには不在中の仕事を。補佐は老師とファズライにお願いします」
「 ――― 了承した」
皺だらけの顔に苦笑を刻んで、老師は頷いた。彼が許可した以上は、たとえ不満があったとしても、神帝会議で訴えるものはいない。場には沈黙が下りて、神帝の言葉を合図に会議は終了した。
「ユーファ様っ、待って!」
会議場を後にして西殿へ続く廊下を歩いていたら、後ろから呼び止める声がかかった。声だけで、それが親友の女神のひとり、ヴィーナだとわかった。振り返った途端、その容姿の美しさに思わず目を細める。光を浴びて煌く波立った金糸の長い髪、白磁の肌はうっすらと朱が混じって、すべらかで染みひとつない。淡い琥珀色の瞳は澄んでいて、長い睫が影を作り神秘的に見える。紅をひいた唇は潤み、惹き付けられる。美の女神と称えられている彼女は、立っているだけで場を華やかにした。その容姿を現すように明るくさっぱりとした性格が好ましく気が合って、次期神帝の地位に着く前からの付き合いだった。
「ヴィーナ。何か ―― 」
彼女が前に立ったのを見計らって問いかけようとして、不満げな口調に遮られた。
「どうして、あんな、顔だけの男と書庫にこもってるような女なの? 私だってあなたの<誓言>になりたいってずっと前から願書を出していたわ!」
ぴっと指を突き刺されて、溜息をつく。あの場で神々を頷かせるよりも、彼女に納得させるほうが難しい。さてどうしようかと空を仰ぎ見る。天神界の青く染まるきれいな空は、渦巻く悩みをほんの少し溶かしてくれるような気がする。
「地位のある神が<誓言>になれないなら、後を継がせて私は降りるわよ」
言うと思った、と予測されていた言葉に、視線を動かす。ヴィーナの瞳は挑戦的に煌いているけれど、その奥に隠されている寂しさがわかる。望んでいることを違う形でもって拒否されれば、怒りや寂しさを感じるのは仕方ない。それが今は痛いほどに共感できる。できるけど、それを認めるわけにはいかなかった。
「それは許可しない。ヴィーナ、私はどうしたってあなたと<誓言>を交わす気はないの」
「……私が嫌いなの?」
「ヴィーナ!」
悲しげに目蓋を伏せるヴィーナの姿が演技だとわかって咎める視線を向けると、たちまち笑みを浮かべて肩を竦められた。冗談よ、と告げられる。
「貴女の気持ちはわかってるのよ。困ったことにね。わからなかったら、子どものようにもっと我侭言ってごねられるんだけど。いいわ、もう。親友っていう立場に甘んじていてあげる」
急にふわりと抱き寄せられる。甘い香りに包まれて、ほっと息をつく。<誓言>としてじゃない。親友としてのこの関係も大切で、失いたくないものだった。ヴィーナの髪がさらりと頬を擽る。
「一週間の星回り、気をつけてね。帰ってきたら一番に私のところにくるのよ」
優しく髪を撫でられて心地よさに目を閉じる。
「 ――― ヴィーナ、ありがとう」
暫く抱き合って、それからヴィーナは声をかけてきたときとは裏腹に笑顔で去っていった。それを見送って、再び踵を返す。
歩き出そうとして、そこに誰かが立っていることに気づいた。一瞬で身体に緊張感が走り抜ける。すっかり気配を消し去っていたのかまったく気がつかなかった。いつもは他の神々がいて気づかれたくないときでも、私にはわかるように微かな気配を掴ませていてくれるのに。目の前に立った姿は威圧感があり、苛立っているのがぴりぴりと肌で感じ取れた。神じゃなかったら、それだけで萎縮し逃げ出したくなるほどだ。或いはその空気に当てられて、消滅してしまう者もいるかもしれないほど、
―― ザナンは怒りに満ちていた。
「どういうつもりだ?」
発せられた険の含んだ声音に小さく喉が鳴った。ここまで怒っている姿は出会ってから初めて見る。思わず足が下がる。それを追い詰めてくるように彼も足を進めてきた。すぐに側にあった柱に背中が当たり、逃げられなくなる。
「他の奴らと<誓言>を交わすのはまだいいさ。おまえは次期神帝だ。俺はそこまで器量がなくはない。だが、あれはどういうことだ? おまえは俺と一緒の時間を取るために星回りするって言ったよな」
明るいところでは深い紺色に染まる瞳がスッと細まり、獲物を捕らえた肉食獣のように剣呑な光を宿す。少しでも動いたら殺されそうな気がした。目を逸らせないまま、顎を引き小さく震える身体に力を込める。
「あなたが言うように、私は次期神帝よ。個人的な事情を優先させるわけにはいかないでしょう」
「ユーファ」
誤魔化すな、と強い視線に貫かれる。とんっと、右側に手をつかれて覆い被さってきた。慌てて胸に手を置いて距離を取る。見上げた先の表情は、常にないほど真剣でいつもの余裕が消えていた。怖い。だけど、黙っているわけにもいかずに、意を決してまっすぐ瞳を見つめ返した。正直に答える。
「少し ―― 考える時間がほしいの」
頬に手が伸ばされて、するりと撫でられる。大きく固い手の平から伝わってきた熱に、思わず息を詰めた。この熱に擦り寄って、素直に甘えることができたらどんなにいいだろう。きっと、胸に抱えている苦しみから逃げられる。わかっているけど、それは間違っているような気もして、そっと、頬を撫でる手を取り降ろした。
「<誓言>を交わした以上、私はあなただけを選べない。ううん、違う。あなただけは、選べないの」
「身体を重ねたのは、俺の独りよがりだっていうつもりか?」
冷静な声が降ってくる。落ち着いた声色だけど、心の底がひやりと冷たくなるような口調だった。余裕の欠片もなく、からかう口ぶりでもなく、感情を一切削ぎ落とした表情に思わず目を逸らしてしまう。苛立ったように乱暴な仕草で顎をつかまれ、顔を上げさせられた。
「<誓言>でもっ、愛さえなければ身体を重ねることは罪じゃなくなるの! それに最初から私は……っ」
――― あなたを愛してなんかいないっ。
そう言葉にしようとして、気づいたザナンに唇を塞がれていた。もがいて逃れようとしても、力強い腕に抱きすくめられて、身動きが取れなくなる。奪われてしまうような口づけが急に怖くなって、ぎゅっと強く目を瞑った。唇はすぐに放されて、耳元で囁かれる。
「混乱してるんだろ? 俺への気持ちが<誓言>として繋がる気持ちからくるものか。それとも ―― っ、おまえっ」
不意に肩を掴まれ、身体を放される。見下ろしてくるザナンの顔は血の気が引き、紺色の瞳は驚きに見開かれていた。驚愕しているザナンをまっすぐ見つめる。気づかれる前に、逃げだしたかった。だけどそうする前に知られてしまった。
肩を掴んでいたザナンの手が力なく滑り落ちていく。彼の手から伝えられていた熱も消えていくような気がした。大切だった何かが急に抜け落ちてしまったように。
「……確かめるために、あいつらの<誓言>を認めたんだな」
確信をもって言われた言葉に俯いて、重くなる口をゆっくりと開く。
「そうじゃない。確かめるためじゃなかった。だけど、認めた瞬間、理解したの」
どんなに、心の隅々を探ってもザナンへの想いには<誓言>としてのものしかない。<誓言>を交わした者に等しくあるもので、愛はなかった。そうだと目の前に突きつけられて、なお関係を続ける気持ちはすっかりなくなっていた。必要なのは、けじめ。次期神帝としての ―― 。
どんっと、急に大きな音が耳元で鳴った。我に返ると、ザナンが柱を握り締めた拳で叩きつけていた。
「 ―― っ!」
咎めようとして、顔を俯かせたまま何も言わないザナンに不安を覚えた。ひとつに結んである彼の漆黒の髪が揺れる。空間がざわりと動いた。それと同時に、視線を逸らしたままザナンは踵を返し、開いた空間の中へ姿を消した。
――― 勝手にしろ。
消える前に呟いていったザナンの言葉を繰り返すと、じわりと眦が熱くなった。ずるずると、柱にもたれていた身体が力なく崩れ落ちる。座り込んで、抱えた膝に顔を埋めた。
もっと、違う立場だったら、嘘でも好きだと。―― 愛してると口にできたかもしれない。たとえ、彼にとってそれが遊びごとだと理解していても、他の女性達のように求められるまま、愛を囁けたかもしれない。或いは、<誓言>を交わしていても、愛を持たないまま、身体だけなら重ねていられた。だけど、神帝になる者が愛していないとわかっているのに、好奇心で一、二度は許されるとしてもずるずると関係を続けていくわけにはいかない。引き返すことができるうちに、戻る必要がある。
「先に、遊びだと思い知らせたのは、ザナンだよ……」
熱い感情が迸る。ぐるぐると胸の内を焦がしていく。けれど、今は<誓言>を三名も抱え込んでいる。いずれも敏感な者たちばかりで ―― だからこそ、ここで泣くことはできない。どんなに感情が溢れてきそうになっても、ひたすら今は、すべてを胸の中に押し留めるしかなかった。