03:運命の出会い
 やる気しねぇての。
 だらしなく机に頬杖をつき、目の前に積まれている書類を横目で見ながら、溜息を吐き出す。朝から何百枚となく読んでいたけれど、差し迫ってという内容じゃない。むしろ、他の神々でも十分対応できそうなものだ。やる気がなくなる、というのも仕方なかった。
「……真面目に取り組んで欲しいね」
 本来なら補佐官が使用する机に居座って、補佐官がするべき書類分けをしている少年を見て、更に溜息が落ちた。肩にかかる金糸の髪は神帝譲り。苛立ちに揺らめく光を浮かべている翠の瞳は神帝妃譲りだろう。どちらにしてもキレイな顔をしているが、まだ成長途中らしく幼さが残っている。曲線を描く頬、ふっくらとした唇。女装をさせたらまず、誰にも気づかれないに違いない。そう思うと、少しだけ愉快な気持ちになった。最も、その口調だけは可愛らしさのひとつもないけれど。
「あいつも、よくこんな内容の書類に真面目にサインする気になるよなー。仕事に追われるわけだよ」
 勿論、城を抜け出してサボっていることも知っているが、差し引いたところで素直に尊敬する。内容を吟味し、判断して決断する。それまでにいくらかの時間は要していた。内容を嘲ってはいるものの、ひとつ判断を間違えば、争いの種にだってなる。すべてを納得させるような解決策を見出さなければならず、それができないのなら、できない分を説得できるようにしなければならないのだ。常に頭を回転させておかねばらなない。文句のひとつも言いたくなる。いつも抜け出していたあいつを連れ戻していたことを思い出すと、役目とはいえ多少の同情も禁じえなかった。
「これでも、本当にユーファの判断が必要なものは省いているんだ。その分は神帝に回してる」
「まあ、ファズライ殿。ザナンは態度こそ問題ですが、書類はきちんと片付けておられるので発言云々は大目に見なければ」
 部屋の中央にあるソファに座って、なにをするでもなくお茶を飲んでいた老師がそう口を挟んできた。口調こそ面白げな含みがあるが、皺だらけの顔には表情は浮かんでいなかった。
「そうはいいますが、老師。部屋の中で溜息ばかりつかれると、流石に僕もうんざりしてきます」
 不満そうに言うファズライの言葉に、そんなに溜息をついていたかと思い出そうとしたが、結局は無意識だったようで苦笑いを浮かべるしかない。目の前に置かれた書類に目を通しながら、口を開く。
「考え事してたんだよ。お子様には到底理解できないことをね」
 挑発に多少眉尻があがった瞬間を見たが、ファズライはどうでもいいとばかりに肩を竦めて、再び自分の分の仕事に取り掛かり始めた。それから視線を逸らし、手を動かしながらも、ユーファのことを思い浮かべる。
(まったく。なんであんな頑固者になっちまったかなー。)
 周囲に向けてなら、いつだって柔軟性を持って対応しているというのに、自分自身のことになると途端に融通が利かなくなる。まあ。生み出された瞬間から、次期神帝としての教育を受けてきたわけで、仕方ないところもあるだろう。それにしても、だ。抱かれたのは愛と<誓言>との気持ちの違いがわからなかったから試してみたかったというのは理解できる。その気持ちに揺れているときに付け込んだのは俺自身だから。手に入れると決めた瞬間から、少しづつ。あいつの<誓言>が俺一人だったから、意外に容易く手の中に落ちてきた。それなのに、やっぱり愛じゃないとわかったからやめる? ガキじゃあるまいし。今更そんなことで諦めるわけがない。今回、大人しく代わりを務めているのは、天神界に籍を置き、あいつの<誓言>である以上はそれなりの責任があるからだ。今は他の奴等に任せるにしても、帰ってきたら相応の見返りをもらう。あの髪一筋だって、俺のものだ。誰にも渡さない。

「ユーファ様に変わりはないかの?」

 不意に話しかけられて、老師を見る。細められている目がわずかに開いていて、探るような視線を向けられていた。苦笑して、肩を竦める。感情を悟られないように淡々と<誓言>として繋がることでわかることを口にする。
「俺が大人しくしてるんだ。異変があるはずないだろ。まあ、<誓言>が、―― 他に3名追加ってくらいだな」
 ファズライが弾かれたように顔を上げた。
「なっ、そ、そんなに……?」
 常に冷静である顔に珍しく焦りを浮かべて、目を見開く。その様子を愉しげに見やってから、肩を竦めた。
「あいつは神帝になる存在だ。それでも少ないくらいだろ」
 最も、<誓言>を結ぶことを苦手としていたのに、どういう理由でそんなに増えたのかは、傍にいない以上はわからない。ただ、あいつが<誓言>を結ぶ瞬間は、わかる。あてつけのつもりか、と疑いもしたけれど、そういう性格でもない。今は怪我をしたり、よほど感情の揺さぶりがないうちは、ここで見守ることに徹することに決めていた。再び会ったときには、手加減はしない。どれだけ<誓言>がいたとしても、特別な存在は俺だけで十分だ。それ以外は認めないし、許さない。どんな手段をもっても、排除してやる。
(俺には、それが可能だということくらいわかってるだろう?)
 手の中に落ちてきた彼女を逃がすつもりはない。
 計画表に沿う限り、今は星神のところを訪れているはずのユーファへ心の中でそう宣言した。


 後は、星神のところへ行って戻るだけだから、先に天神界に帰っているように伝えて、ひとりで空間を渡った。今回の星回りは、少し異質なものになった。まさか<誓言>を更に加えるなんて自分でも意外でまだ気持ちがわずかに高揚しているように感じられた。皆の手前、平静を保つように心がけてはいたけれど、ひとりになると浮き足立つような想いを自覚する。信じられない、けど後悔はしていない。
『……なんか、嬉しそう』
 唐突にそう声が聞こえて、空間を歩いていた足を止める。ふわり、と目の前に深紅の目と髪をした少年の姿が浮かび上がってきた。
「 ―― 硝(しょう)」
 名前を呼ぶと、彼は頬を緩める。ふわりふわりと浮かぶ硝と並んで再び歩き出す。
「戸惑ってはいるけどね。でも、もう考えないことにしたの」
『何を?』
 不思議そうに首を傾ける硝は、本当はわかっているのだろう。その表情は、からかうような笑みを含んでいる。それに微笑んで、空を見上げる。とはいっても、空間を渡っている最中の空は果てしなくただ、暗闇が続いているだけ。
「軽蔑する?」
 硝の言葉には答えずに違うことを問いかける。何もない空間に横たわって、ふわふわとついてくる硝は、視線を空に向けたまま、口を開いた。
『どんな選択をしても、僕を置いていかない限りは、味方でいるよ』
「それって、私がどこかへ行ってしまうみたいね」
 苦笑いを零すと、上へと移動した硝が覗き込むように見つめてきた。
『そのための準備なのかと勘繰りたくなるんだよ。もともと、どこへでも行ってしまいそうな雰囲気を持ってるから』
 ――― だから、皆が閉じ込めてしまいたくなるんだ。
 同じ色でも更に深みのある紅い硝の目が見透かすように、ゆったりと細まった。その言葉に、息が詰まる。そう感じた自分を誤魔化したくて、視線を逸らした。
「私はどこへも行かないわ」
 決められている道があって、そこから抜け出すことなど許されない。他に道なんて、ない。逸れようとしても、全力で阻止される。それにその責任の重さもわかってるから、逃げようとは思っていない。だけど、口にすると揺れているようにも聞こえる。
「行かないわよ、どこにも」
 悔しくて、もう一度声に出してみる。二度目のそれは、何もない空間に虚しく響いていった。

 生命を住まわせる星を形作り見守る星神がいるのは、無空間のひとつで、その場所からは存在するすべての星を見渡すことができた。硝子の向こうで、様々な色彩をもつ星が浮かび空間を縦横無尽に動く様子をユーファは不思議な思いで眺めていた。実際はひとつひとつがかけ離れた場所にあって、とてもじゃないけれどこんなふうに一面から全てを見る事なんてできない。投影しているのかと思ったけれど、実物だから触らないようにと注意を受けている。それを考えると、幻というわけでもなさそうだった。
( ―― 星神の特別な力のひとつ?)
 星神が作り出した『星』に他の神々が力を貸して、地や空、光、闇が構成され、生命が生み出されていく。つまりは、神々が担う役割の礎となる者だった。ユーファは、一度遠目から見たことがあるけれど、彼と話したことはない。星から目を離すことができない役割を担っているせいか、天神界を訪れることがなくこの無空間からあまり出ないと噂に聞いていた。仕事上でもすべて神帝との直接なやり取りで、関わりがない。だけど、一度はきちんと向かい合って話を聞いてみたいと思っていたから、この機会に訪れようと決めていた。
「待たせたね」

 不意に背中越しに声をかけられて、振り向いた、瞬間 ――― 。


 ベットの上に膝を抱えて蹲っているユーファの姿を見つめて、どうしたものかしらと思考を巡らせる。まだ日程的には、星回りをしている予定の中にいるはずなのに、何の予告もなくいきなりやって来て、暫くかくまって、と言ったきり城の中にある彼女専用の部屋から出て来なくなった。予想もしない彼女の行動は面白いものがあるけれど、こんな様子は今まで一度としてない。何があったのか心配になる。
「ユーファ様、お茶を淹れたから飲みましょう」
声をかけると、ぴくりと小さく身体が震えたのがわかった。傍まで歩み寄って、ベットの端に腰掛ける。手を伸ばして、彼女の黒いさらさらの髪に触れた。顔を上げて、赤く染まる瞳を見ると、今にも泣きだしそうに潤んでいた。深刻な表情に胸が痛むけれど、同時に途方に暮れているようなその顔がなんだか可愛らしいと感じてしまった。
「迷惑かけて……。ごめんね、ヴィーナ」
 弱々しく謝る声に、苦く笑う。彼女に頼られることがどれだけ嬉しいかいつも伝えているつもりなのに、全くもって、欠片も伝わっていないらしい。
「私は甘くないの。迷惑だと感じた瞬間に叩き出してるわよ。そんなこと、気にしないで」
「けどっ。<誓言>たちが来てるでしょ?」
 確信めいた口調で言う彼女の気がかりが何かわかって、触れている髪をさらりと指で梳く。
「安心していいわ。私の領域には一歩も入らせないから。貴女の<誓言>を追い返せるなんて気持ちいいわよ」
 守護する領域には、その神の許可がないと中に足を踏み入れることはできない。まして、城は厳重な結界が張られている。同じ神であり、同等 ―― 或いはそれ以上の力を持つ者でも、無断で入り込むことはできず、神より下の地位である<誓言>は例え、主人が此処にいようとも傍にいることを拒否されている以上は勝手に入れない。それを望んでいることを察したから、ユーファが此処にいることで領域への侵入の許可を求めている<誓言>たちを片端から突っぱねている。
「貴女が望まない限り、誰も入れたりしないわ。だから安心してちょうだい」
 少しでも不安を取り除けるように、華やかな微笑みを浮かべて向けた。ありがとう、と僅かに安心して頷くユーファに手を差し伸べる。
「貴女のお気に入りのお茶を淹れたわ。一緒に飲みましょう?」
 今度こそ、ユーファは手を重ねてベットから降りてくれた。
 バルコニーにテーブルと椅子を準備して、二人でお茶を飲みながら、ユーファの話を聴いて、思わず返す言葉に詰まってしまった。
「ちょっと ―― まっ、待って。それは、えーっと、……本気?」
 かちゃり、とカップを置いたユーファは俯いて ―― 小さく頷いた。
 どんなことでも受け入れようと決めていた覚悟に関わらず、告げられた言葉の重みに頭を抱えて溜息をつかずにはいられなかった。ありえない、と呻きたくなる。
「ユーファ様……」
「わからない、けど……。忘れられないの。会いたくて、傍にいたくて、ずっと ―― 離れたくない」
 零される頼りなく揺れる声音に真剣だと感じ取って、胸が詰まる。
 いつかこういうことが起きるような気はしていた。誰だって、恋には落ちる。特別、神帝に恋が許されてないわけじゃない。現、神帝と神妃は深い恋情の末結ばれたふたりで、それ故に生まれたユーファを宝珠のように大切にしている。だけど、―― ちらりと、気づかれないように持ち上げたカップで誤魔化しながら視線を向ける。
(よりにもよって、星神にとは思わなかったわ……。)
 同じ神位にあるから、見かけたことはあるし、仕事上の付き合いから少なからず関係したこともある。一筋縄ではいかない姿を思い浮かべて、溜息をついた。銀糸の髪と、澄んだ青い瞳。色白い肌。二重の瞳も、長い睫も、すべての形が神々の中でも特質して整っているけれど、表情や物腰がやわらかいから、童顔に見える。性格も穏やかで、誰に対しても礼儀正しく、丁寧 ―― 。頭の回転も早い。唯一の欠点と言えば、ヴィーナから見ると仕事熱心なところ。星神の役割を至上のものと考え、そのためなら神帝に意見することも譲らず、頑固になる。
「星神は、何か言ってたの?」
「……っ、なにも!」
 慌てたように首を振る姿に苦笑する。そのわりには、頬は赤く染まり、瞳には明らかな動揺が浮かんでいる。
(あらあら。ユーファ様でもそんなわかりきった顔をするのね。)
 いつもはなるべく自分の感情を表立って表すことがない彼女の常とは違う様子に、微笑ましく思いながらも、どうしたものかしらと思う。ふたりの想いが真剣でも、成就するには道が険しく長すぎるような気もする。しかも、あの星神がユーファ様のためとはいえ、その役割を降りて ― 神帝の夫 ―― 神夫(しんふ)になるとは思えない。
「私と結婚するのは無理だって、言われたし……。私もそれは願っていないの」
 表情を読み取って気づいたのか、悲しげな口調でそう言われてハッと顔を上げる。
「いいの。今はこのまま、ふたりでいられたら ―― 」
「ユーファ様。だけど、それは」
 言いかけた言葉が口に出してしまったら余計に彼女を苦しませることに気づいて、飲み込んだ。星神に神位を降りる覚悟があるなら、かまわない。だけど、事実として星神と次期神帝になるユーファ様との恋は公にできるはずもなく、許されない。もしもばれてしまったら、星神は抹消されることになる。
「 ―― 日程切れね。そろそろ、天神界に戻るわ」
 何かを吹っ切るように瞼を伏せて、そう言ってから立ち上がった。
「ユーファ様。お願いだから、なにをするにしても、早まらないで」
 何をかはわからない。だけど、彼女の顔を見て、焦燥のようなものを感じた。わかってる。彼女はそんな浅はかな行為を容易に犯したりはしない。でも、いつも胸の奥で感じていたことがある。どこかへ。消えていってしまいそうな、彼女の雰囲気を ―― 。
「ヴィーナ。私は、大丈夫よ。確かに星神との出会いは運命だった。 ―― けど、私にも大切な役割があることはわかってるから」
 安心して、と微笑む彼女に胸を撫で下ろしながらも、胸の奥で何か言葉にならない気持ちが生じていた。


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