―――― すべて。 全て壊れてしまえば、いい。 そう願ったところで、少年にできることといえば目の前の光景を見ないように、 瞼を伏せることだけ。 それでも、何ひとつ変わらない。 なに、ひとつ。 「約束の、花だよ」 そっと、呟いてみる。 何もかも攫ってしまうように、激しく吹きつける風が、 髪を揺らしていくのを感じた。 「レティシアの街に?」 荷物を用意し終えて、暫らくの不在を告げるために、隣に住んでいる少女のもとを 訪れた。 不安そうに揺れる瞳に、苦笑がもれる。 (君をおいて永遠にいなくなってしまうわけでもないのに。) それでも少女の顔には悲しみが浮かんでいた。 「すぐ帰ってくるのに、どうしてそんな不安そうな顔をするの?」 少女の頬にそっと手を当てて問いかけると、「だって」、と拗ねるような声が返った。 「あそこは、もうすぐ戦争に巻き込まれるって聞いたものっ! 何かあったらどうするの?!」 心配そうに見つめてくる瞳に、嬉しさと溢れるほどの愛しさがわきあがる。 泣きそうに顔を歪めながら、それでも涙を見せないよう、きゅっと唇を引き締めている少女に そっと口づけた。 驚いたように目が見開かれる。 「噂だよ。心配は嬉しいけど」 クスリ、と笑いを零して、まだ衝撃を受けているのか呆然としている少女に、 話し続ける。 「それに、例え事実だとしても。僕はなにがあっても君のところに帰ってくるよ」 にっこりと微笑むと、ようやく呪縛から解き放たれたように頬を赤く染めたまま、 少女は軽く睨むような目つきで言った。 「約束してよ?」 その表情はさっきまでとは違って明らかに嬉しそうだった。 うん、とひとつ頷いて。 地面に置いていた荷物の入ったリュックを手に取る。 「おみやげ、ほしいものがある?」 「花!」 そういえば、と思い出して問いかけた言葉に、思案するような瞬間もなく、 パッと笑顔を浮かべて少女は答えた。 「……花?」 理解するまでに、数瞬の時が必要だった。 ずる、と。背中にかけたリュックがずれ落ちた。 不思議そうに繰り返すと、「もうっ!」と呆れたように少女が言う。 「忘れたの? レティシアの街からここへ帰ってくる途中にある湖のほとりに咲く白い花」 そう説明されて、思い出した。 記憶力は少女よりも良い方だと自覚している。だから、その花に伝わる伝説も。 自然と緩んだ頬に気づいて、「花」のことを思い出したと悟ったのか少女は、 上目遣いで躊躇いがちに口を開く。 「…………だめ?」 その姿があまりにも可愛くて。思わず笑みが零れ落ちる。 「もらってくれるの?」 反射的に問い返していた言葉に、今度は少女の顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。 「気持ちがこもってるならね!」 ころころと変わる表情は見ていて飽きない。 幼い頃から、ずっとそうだった。 そうしてきっと。これからも。そんな少女に捕らわれていくんだろう、と思わずにはいられない。 だから、頷いた。 「約束するよ。楽しみにしてて」 もういちど。少女の頬に手を伸ばして、約束の口付けを送る。 今度は少女の瞼も閉じられていた。 名残惜しく想いながらも、唇を離す。 これ以上、遅くなると帰ってくるのにも時間がとられてしまう。 踵を返した。 「あ、待って!」 呼び止められて、もういちど振り返る。 視線が合うと、少女はにっこり笑った。青い空に浮かぶ、太陽のような笑顔で。 「行ってらっしゃい!」 その言葉が嬉しくて、軽く右手を挙げると笑顔とともに返した。 「行ってきます!」 きっと、背中が見えなくなるまで、少女はあの場所で。 動かないまま見送っているのだろう、と想像を浮かべながら、早く帰ってくるために、 リュックを肩にかけなおして、足を速めた。 本当に、噂だった。 レティシアの街が戦争に巻き込まれる、というのは。 本当のことを知ったときは、すでに遅かった。 腕の中で白い花が揺れている。 一面、焼け野原と化したこの場所で。その花の色だけが、目立っているような気がした。 いっそのこと。少女と一緒にいる時だったらよかったのに。 少女の傍を離れるなんて、今まで生きてきた十数年の中で。 初めてだったんだ。 (なにをしたんだ?) 少女が。少年が。 ただ小さな街で、生きていくために働いていただけだ。 その中で幸せを掴もうとしただけだ。 『その花を贈ることは、結婚してくださいって意味があるのよ』 脳裏に響く声。 瞼を開けても、やはり少年の目の前の光景は変わらなかった。 「約束の、……」 言葉を、続けることはできずに。 すべて。 ――― 全て壊れてしまった世界で。 ただ、願うしかない。 ―――― すべて。 全て壊れてしまえば、いい。 それでも、何ひとつ変わらない。 なに、ひとつ。 ふわり、と。 少年の腕の中から、白い花が風に攫われていった。 |