■ 君は寂しくマリアにキスをする(後編) ■
ご機嫌は治りましたか、と冗談交じりに言いながら部屋の扉を開けると、アリストアがいつものように駆け寄ってきて抱き上げてきた。そのまま抱き締められて、苦笑する。ぽんぽんと背中に回した手で軽く叩いてあげる。
「 ――― もう来てくれないかと思った」
「お金の支払い忘れてて」
ほっと安心したように言うアリストアに真面目な声で返すと、もうっ、と拗ねた答えが返った。
「忘れてたお詫びにこれを受け取ってくれる?」
鞄から取り出した2つの箱を手渡す。最高級品と名高い、ブラジル産の珈琲豆とイギリス産の希少品である薫り高いダージリンの葉っぱ。どちらもこの国に住んでいては滅多に手に入らないもの。少なくとも一般人の一ヶ月の給料では手に入らないものであることは確かな品物だった。
「これで機嫌を直せって?」
「言った? 私がそんなこと?」
悪戯っぽく笑って返すと、一瞬驚いたように目を大きくしたアリストアがすぐに稀にしか見れないとても優しく穏やかな笑顔を浮かべてくれた。その笑顔を見れたことに胸を撫で下ろす。同時に声が割り込んできた。
「しょうがない。俺が淹れてきてやる。先に言っとくけどな」
振り返ると、にやりと笑ったアイレスがアリストアの手から箱を取って、そう言った。
「美味しいのは、俺の腕がいいからだ」
踵を返して部屋を出て行こうとしたアイレスの背中に声をかける。
「待って。私今日はもう行くから、いらないよ。明日またゆっくり……」
拒否しようとした言葉は、だけど、アリストアに腕を取られて遮られる。え、と振り向いた背中にアイレスの声がかかった。
「いいから。まだ時間あるだろ。飲んでいけよ」
「そうよ。一時間くらいいいじゃないの」
そう引き止められる言葉はいつも通りの口調で、それでもどこか含みがあるように聞こえた。普段通りの二人の空間に違和感を覚える。何がといえるものではないけれど、何かが訴えてきていた。ソファへと少し強引に促される。
「アリストア……ッ、まさか!」
違和感の原因に思い立って、口をついて出た口調が知らず、咎めるようなものになっていた。
珍しいユウの感情ともいえる言葉にアリストアは息を呑んだ。その姿を見た途端、反射的にユウは部屋を飛び出して行った。
「ユウ??!」
引き止める声は届かなくて、ユウの姿を遮った扉に視線を向けたまま溜息をついた。
「アリストア?」
「驚くことばっかりね。あの子のあんな年相応なところ、初めて見たわ」
嬉しそうな、けれどどこか複雑な表情を浮かべて言う。
若いながら人生経験の溢れた彼女にとって、それが幸せなことかわからない。けれど、少なくとも、全てを諦めたような表情をしていたユウの姿を見るときよりも胸を痛めずにすんだ。
「大切なものができるのはいいことさ。友達、恋人、家族…、けど、あいつの場合はたぶん、それが仇になっちまう。縛られて身動きができなくなる。そこに付け入るようなヤツが現れたら、きっと自分を犠牲にするしかできなくなるだろうな」
アイレスの言葉は確かにアリストアが心のどこかで思っていたことだった。
自分を大切に思えない人間が、大切なものをつくってしまったら。きっと自らを犠牲にすることを顧みずに守るはずだ。それが何よりもユウを大切に想うものにとっては、怖くて不安になる。だけど、救ってあげることができないアリストアたちには願うしかない。
「ユウにつけ入ることのできる人間なんてきっと、いないわよ」
断言しながら、それでも未来のことはわからずに。だから、それは希望の言葉。願わくば、このままユウが幸せになれることを願って。
アリストアの言葉を聞いていたアイレスは手にしている箱を弄びながら、静かな口調で言う。
「……もし」
「アイレス?」
自分と同じ色の瞳には狂気とも、決意ともとれる光が宿っている。
「もし、リランがユウの足枷になるときは、憎まれても俺が殺すよ」
幸せは、時として不幸も呼ぶ。
アリストアが弟の言葉を非難しないのも、彼がしなければ恐らく、自分がそうするだろうということがわかるのも、嫉妬ゆえかもしれない。リランに会う前からの知り合いだったのに、ユウのあんな表情を出すことができなかった。
追いかけることも、引き戻すこともできず、ただ見ていることしかできなかった自分たちにとって、リランという存在は毒だ。ユウが大事であればあるほど ―――― 。ユウの命ほど大切なものはないから。だから、憎まれても恨まれても、ユウの命がかかれば自分たちはきっと躊躇いもなくリランをこの手にかけるだろう。
ユウにとってリランが救いであるように、アリストアやアイレスにとってもユウが救いだから。何を引き換えにしても構わないほど大切なものだから。
そこまで思って、ふとアリストアは苦笑した。
「なんだよ?」
それに気づいて訝るような視線をアイレスが向ける。
「ユウにとってのリランは、私たちにとってのユウねって思ったの」
途端、不満そうに眉を顰める。「一緒にするな」そう短く言い捨てて、アイレスは部屋を後にした。
テーブルの上には、まだ用意していた空っぽのユウ専用のコーヒーカップが置かれたまま。それを見つめて、アリストアはまるでユウに話しかけるように口を開いた。
「貴女は人を惹きつけるのよ。それも…どこか、心に傷を負った者たちの」
だから、本人は心のまっすぐな明るい人に惹かれるのかもしれない。リランのように。深いため息が、アリストアの艶やかな唇から零れる。
「……ユウ、それでも私たちは貴女に憎まれても恨まれても、貴女が生きていること以上に望むことはないのよ」
リランの存在が失われたら、ユウから本当に感情がなくなるかもしれない。それでもユウと引き換えなら、躊躇いなくリランの命を奪うだろう。身勝手でわがままでも。だから、そう。だから、願うしかない。
ユウが闇に包まれることがないように ――――― 。
「リランっ!」
リランが屋敷の門をくぐり抜ける前に、全力疾走のまま腕を掴んで引き止める。振り返ったリランは目を丸くして、息を呑んだ。そういえば、以前にも似たようなことをしたことがあったと酸素の足りない頭の片隅で思い出した。あの時は、裏通りにきたリランを捕まえるためだったけど。息を整えながら、懐かしい想いを感じていると、我を取り戻したリランが不思議そうに聞いてきた。
「ユウ、どうしたの。そんなに慌てて ―― 」
「あの瓶、貸して」
あの瓶、と首を傾けるリランは「香水」と付け加えられた言葉に思い出したように、鞄から取り出して差し出した手の平に置いた。キュッ、と蓋を開けて、香りを嗅ぐと微かにアルコールの匂いが鼻腔を擽った。それは本当に微かなもので、そうとわかって香りを嗅がない限りわからない。アリストアの企んだような笑顔が脳裏に浮かぶ。
「 ―― やっぱり」
混ぜられているのは、恐らく安物の香りが薄い赤ワイン。そのわりに、色は濃いもの。香水だと思って出そうとしたら、赤い液体 ―― それは娼館にきた新人によくやる悪戯で、一度だけユウも参加したことがある。たまたま目の前に安物の赤ワインがあって、試しに香水にそうとわからないよう調合させてみた。夕暮れの中でその香水をつけようとした新人女性は真っ赤な血だと勘違いして騒いだ。他の新人を苛めていたその女性は、すぐにアリストアの娼館を辞めることになった。問題を起こす前に辞めてくれてよかったとアリストアは胸を撫で下ろしていたけど。
これはあの時のことを裏に込めているのか、とユウは溜息をついた。問題が起きる前にリランを引き離すつもりだったのかもしれない。それとも本当に軽い悪戯のつもりだったのかもわからないけど、とりあえず取り戻した香水を鞄に戻して、リランに視線を向けた。
「これ、また今度ね」
「いいよ。それより、遅くなるんじゃなかったの?」
そんなに慌てて来て、とポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭いてくれた。汗が流れるほど一生懸命になるなんて記憶の中ではなかった。有難う、とハンカチを受け取って、ふと苦笑が零れた。
(そういえば、リランには何度も御礼を口にしてる気がする。)
誰かに御礼を言うことも、酷く珍しいと気がつかされた。
「まあ、いいか。せっかくだから、一緒に行こう。ね、家族に紹介するわ」
嬉しそうにリランが手を差し出してくる。ぎくりと身体が一瞬強張ってしまった。それでも、一緒に、という言葉が心に染み渡ってきて ――― 。躊躇う気持ちを少し残しながら、頷いてその手を取った。優しく握られる手の、包み込むような感触にまるで、リランの温もりが伝わってくるかのように心が温かくなっていく。見つめてくるリランの瞳に微笑む自分の顔がうつっているのを見つけて、嬉しくなった。
「 ――― ユウ?」
唇に冷たい感触を受けた瞬間、名前を呼ばれて、振り向いた。
「前はこのマリア像が寂しげに見えてた」
「……今は?」
肩を竦めて、もう一度視線をマリア像に向ける。
( ――― 今は?)
繰り返した問いに、思い浮かんだ言葉を言うのは躊躇いがあって。後ろに立っている親友に聞かせるわけにはいかなかった。肩を竦めて、目を閉じる。感情がないと思っていたあの頃に比べて、今は感情を隠すことが上手になってしまったように思える。
「もう、用事は終わったの?」
リランに笑顔で誤魔化して、そう問いかけると、小さく息を呑んだリランもすぐに諦めたように微笑んで頷いてくれた。
「そう。じゃあ、帰ろう。一緒に」
そう言って、手を差し出すとリランは嬉しそうに繋いでくれた。
『今は、マリア像よりも、私が寂しく思えてしまう ――― 』
重ねることさえも難しくなった感情は、すべてをあやふやにしてしまう。それでもこの繋いでいる手がきっと、幸せに続いていると信じたくなった。求める心を厄介だと感じながらも、この手だけは放したくないと強く願ってしまった。