■ 贖罪に跪く君を傷つける(後編) ■
一応、国に存在する街の隅々まで地図が頭に入ってはいるけれど、この廃屋に地下室があったなんて、知らなかった。といっても、『エンジェル』を摘発した後で、今回の標的が作り出したのかもしれない。だからこそ、見逃した。
(早急な廃屋の撤去も、考えておくべきよね……。)
溜息をつきたい気持ちになりながら、中を進んでいく。明り一つなく、階段も途中が抜け落ちたりしていて進むことが困難だった。動くたびに耳元でつけ慣れない物体が揺れることが不快になる。それを気にしないためにも、普段よりなお、周囲の気配に気を配ることにした。
念のために二階から侵入して降りてきたけれど、見張りらしき者もいない。一階にも人の気配はなかった。セキュリティの網もない。
( ――― それで。)
階段を降りきったところで、周囲を見回す。
三階建てのビルには、焼け焦げたような跡もある。テロリストたちが仕掛けた爆弾の犠牲にでもなったのかもしれない。地下への入り口は、一階にある三つある部屋のうち、中央のドアを開けた内側の壁。手に入れた情報の通り、進んでいく。ドアを開ける前に中の様子を窺っても、何かが仕掛けられている気配もなく、ドアを開ける。その裏側の壁に、確かに小さなボタンが塗りこまれてあった。躊躇いなく押してみると、隠されてあった入り口が開く。とても廃屋にあるとは思えないほど、シュッと軽快な音を立てて開いた。
外から見ても先には明りはなく、真っ暗。手にしていたフラッシュライトをつける。さっき降りてきた階段よりもしっかりした階段が下へと続いていた。最近作られたことがわかる。中に足を踏み入れると開いたときと同様に軽快な音を立てて、入り口が閉まった。
(さて、何が待ち受けているんだか。)
ひと一人が通れるスペースで、横に少し伸ばしただけで触れる両壁に圧迫されるような感覚があった。息苦しい。意外にも階段は長かった。ライトで先を照らしてみても、終わりが見えない。それでも進むしかないから、罠がないか気をつけながら降りていく。次第に、呼吸が乱れていくのを感じる。
(ああ、やば。もしかして、この階段って ―― 。)
無臭の睡眠薬が気体になって溶かされていると気づいたときには遅かった。持っていたフラッシュライトが滑り落ちていく。足元がふらついて、慌てて壁に寄りかかった。ずるずると身体が落ちていく。支えられない、落ちる、と思った瞬間には、ふわりと抱き上げられていた。
「だれ ―― ?」
視線をあげようとするけれど、暗闇で見えない。途端に、瞼が手の平で覆い隠されてしまう。
「少しの間、おやすみなさい。僕の ―― 」
最後の声を聞き取る前に、意識がぼやけていった。
いつだって、そう。欲しいものはなにひとつくれないくせに、いらないものばかり押し付けてくる。それを放り投げたら、二度と顧みられなくなるようで、怖い。無条件の愛情なんて、知らなかった。いつだって、求めることだけは許されなかった。受け入れなければいけないのは、ほしくないものばかり。初めて、知った。私が何をしなくても、心配してくれて、守ってくれると小さな両手を精一杯伸ばしてくれる、優しくて温かい手の存在を ―― 。欲しいと、心の底から欲しいと、初めて願ったものを手に入れることができた。だけど、手に入れた瞬間、今度は手放すことが怖くなった。そんな臆病な私を知ったら、彼女は ―― 。
「 ――― っ!」
ちくり、と鋭い痛みを腕に感じて、瞼を開ける。ぼやけた視界に、軽く頭を振った。
「目が覚めましたか?」
穏やかな声が聞こえてきて、はっきりしないまま顔をあげる。何度か瞬きを繰り返すと、ようやく男の顔が見えてきた。手を動かそうとして、椅子の背中に回されて手錠で繋がれているのを感じた。足も縛られている。それよりも、身体中を支配する気だるさに嫌な予感を覚えた。
「あなた、だれ?」
舌が痺れる。この症状は、間違いない。覚えのある感覚に自分が使われた薬を咄嗟に理解した。
「素晴らしいっ。流石、Z団のリーダーですね。エンジェルを打たれてなお、意識があるなんて!」
ぱんっと両手を打って、嬉しそうに男は愉しげに笑った。黒く長い髪をひとつに結んで後ろに垂らし、翡翠を彩った瞳は妖しげに煌いている。整った顔をしているが、その美貌は危険な面影を孕んでいるように見えた。着ている白衣が余計に気味悪く思える。
男は顎に手をかけて、ぐいっと持ち上げた。些細な動きでも、吐き気が襲ってくる。縛られている手をぎゅっと握り締めて堪えた。視線を合わせると、静かな口調で問いかけられる。
「……僕を覚えていますか?」
覚えてない、と口を開こうとした瞬間、気持ち悪さがこみあげてきそうになる。慌てて唇を引き結んだ。代わりに、小さく首を横に振る。それだけで全身を激痛が襲ってきた。
「ぅっ、」
歯を噛み締めて痛みを堪える。男はかまわず、寂しげに目を細めて肩を竦めた。
「やっぱり、貴女は僕なんて眼中になかった。わかってはいたんですけどね、残念です」
「研、究……所、で、」
「そう。僕はセレン=ウォルグ。一年前ですか。カルロ研究所を貴女が摘発したときです。僕は脅されて研究していた人間の一人でした」
薬の効用で、光が消えてしまうみたいに、瞳が虚ろになっていくような気がする。力が抜けていく。セレンと名乗った男の声だけが、現実に繋ぎ止めていた。
「そこで、僕は「エンジェル」という薬の研究をしていました。効用としては一般に出回っている麻薬の、更に強い効果をもたらすものです。研究所に乗り込んできた貴女を一目見て、僕は恋に落ちました。いえ、恋という純粋な言葉では尚足りない想いに支配された。貴女が欲しい、と」
耳元で声がした。甘く、誘うような。
ぞくり、と背筋に寒気が走る。効用がこんなにも強いのは少し、計算外だった。
(違う。普通の量使われたわけじゃない……。)
一体、どれだけ打たれたのか、と目の前で狂気に煌く光を宿す男の目を見て、ぞっとした。この目はまるで ―― 。
「けれど、貴女は統帥のものだった」
思い浮かんでしまった面影の名前を口に出されて、ハッと意識を取り戻す。冗談じゃない。そんな間違いは、聞きたくもない。
「ちがう…っ、わた…!」
開いた唇を塞ぐように、セレンのそれが重なった。椅子に縛られたまま、抵抗することも出来ずに受け入れるしかない。濃厚な口付けは、ただでさえ薬で頭が霞がかったように朦朧としている思考を奪っていった。唇を堪能したセレンは名残惜しげに離して、ふっ、と笑みを零す。
「普通のヒトの倍以上にこの薬を受けて、廃人にもならず、いまだ抵抗できるとは本当に貴女は僕の期待を裏切らないですね。でも、それも終わりです」
その言葉が合図だったかのように、ユウの意識は暗闇の中へ落ちていった。がくり、と項垂れる。
それを見て、セレンはユウの両手と両足を捕らえている手錠を外した。その瞬間、ユウの身体が崩れるようにセレンのほうへ倒れてくる。セレンはユウをしっかりと抱きとめた。
ぞくり、と。背筋を快感が走り抜ける。
(次に目を覚ましたとき、貴女は僕のものですよ。)
言い聞かせるように心の中で話しかけながら、そっと彼女を部屋の片隅に置いてあるベッドへと運ぶ。優しく降ろして、その頬にキスを落とした。
「良い夢を ――― 」
そう告げて、踵を返した瞬間、鋭い声がかかった。
「動かないでっ!」
ぎくり、とセレンは足を止める。声がかかったほうへ振り向いて、息を呑んだ。
意識を閉ざしたはずのユウが、上半身を起こし銃口を向けていた。
「 ―――― なっ?!」
驚愕し、声を上げた瞬間、背後からバンッと大きな音が鳴った。扉が開き、人が入り込んでくる。
「Zの‘レッド’よ。大人しくしなさいっ!」
一斉に数箇所からセレンは銃口を向けられる。
それを見回して、彼の視線はユウで止まった。ユウはそれを受けて、耳につけていた小さなイヤリングをはずし、それを‘レッド’へ放り投げた。「遅い」という一言ともに。
「悪かったわね」
イヤリングをキャッチし胸ポケットに直しながら、‘レッド’は少しばかり不満そうな表情で応じた。
それを見て、セレンは全てに合点が言ったように苦笑を零した。恐らくは自嘲であるそれ、を。
「なるほど、全てが筒抜けだったわけですか?」
「そういうこと。麻薬使用違反で取り締まらせてもらうわ」
他にも、少女誘拐監禁罪ね。
そう付け足して、‘レッド’は部下へ彼を引き渡した。部屋を連れて行かれるセレンはぴたりと歩みを止める。まだ銃口を向けているユウに、視線を向けた。
「ひとつだけ、訊かせて下さい」
ユウは視線だけで、先を促す。翡翠の瞳に複雑な光が宿る。
「エンジェルの効果がなぜ?」
「抵抗薬を作って、飲んでおいたから」
最も、適量以上を打たれるとは思わなかったから、身体が慣れずに痛みを訴えている。だけど、他人の前で醜態は晒したくない。それだけが意識を保っていられる理由だった。
「流石ですね。僕もあの噂を聞いてしまって焦ったことが敗因でしょう。もう少し時間があれば、薬は完璧に。もっと計画的に貴女を僕のものにできたでしょうね」
「言っておくけど、私は統帥のものなんかじゃない」
勝手なことばかりを口にするセレンを睨みつける。セレンはそれには答えずに、小さく肩を竦めて団員達に連れられ、部屋を出て行った。残った‘レッド’に声をかけられる。
「ねぇ。そろそろ行くわよ。いつまでベッドに ―― っ、リーダーっ!」
必死に保っていた意識がぷつりと切れて、身体中の力が抜けてしまった。
「随分と勝手なことをしたんだな」
統帥の館にある自室の扉を開けて、部屋の中で佇んでいる統帥の姿に足を止めた。団の領域にいるときとは違う、あからさまに感情を露わにして、不機嫌を纏っている統帥に、血の気が引く。薬が完全に抜け切っていないせいもあって、いつものように無表情にもなれなかった。
「‘レッド’に報告を受けて、どれだけ心配したと思ってるんだ。気を失って、病院に運ばれたが、すぐに抜け出したらしいじゃないか」
「少し休めば抜けきるから、病院は必要ないもの」
「相変わらずの病院嫌いか」
わざとらしく大きく息をついて、すぐに歩み寄ってくる。咄嗟に逃げようかと思ったけど、後々面倒ごとになるくらいなら、今は耐えようと思い直した。腕を強い力で掴まれる。ぐっと身体をもちあげるように引き寄せられ、端整な顔が間近でにやりと唇の端をつり上げる。
「跪いて許しを請うなら、手加減してやるが?」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
困惑して見つめると、フッと笑みを浮かべそのまま耳元で囁いてくる。
「勝手に団員を動かしたことは許してやろう。ただし ―― 」
スッと細まった瞳に、ごくりと喉が鳴る。ひやりと下がった部屋の空気。向けられる剣呑な眼差し。振り払うには身体に力を入れることはできず、顔が強張る。
「他の男に捕まるということがどれだけ私を怒らせるか考えてから動くべきだったな」
ぞくり、と全身に寒気が走る。それが薬のせいか。掴まれた腕にこめられている力のせいかわからないまま ―― 目を閉じてよりいっそう、深い傷を与えられることを受け入れるしかなかった。