Don't cry baby

モクジ

  番外編  

 ――― 月哉が高熱を出している。
 その言葉を叔母の貴子さんから聞かされたのは、丁度明日から春休みに入るという時だった。通っている学科の春休みは一週間。勿論、その間も課題はたっぷり出されて、親友の由香と溜息をついた。そんなときの唐突の電話と内容に、心臓が凍りついた。
 『響クンから連絡あったの。ほら、月哉クン特に弱ってるときは誰も寄せ付けない主義でしょう。事務所の人も追い返してるらしくて』
 それで、最後の頼みとばかりに私に連絡つけるように叔母さんに頼み込んだらしい。ヨリが戻ったことは月哉から聞いたんだろうか。疑問が浮かんだけれど、月哉を心配する気持ちが大きくてそれはすぐに消えてしまった。
 「わかった。今から様子見てくる!」
 焦りながらそう言って電話を切る。怪訝そうに見つめてくる由香に気づいた。
 「月哉が熱出したって」
 彼女だけに聞こえるように声を潜めて言う。一瞬目を見開いた由香はだけど、その一言だけで全て納得したように「いってらっしゃーい」と手を振った。私も苦笑して、鞄を持った手とは反対の手を軽く振って、校門の外で客待ちをしているタクシーに乗り込んだ。
 タクシーの中でできるだけ男の子っぽく見えるように変装し ―― 幸いにも帽子は持っていたし、ズボンだった ―― 途中のスーパーで必要になりそうなものを買い込んで、マンションまでできるだけ急いでもらう。車から降りて、入り口まで向かった。管理人の柏木さんを見つけて、挨拶をする。
 「月哉が熱出してるって」
 「ああ。響くんに聞いたよ。君が来なかったら、様子見に行ってくれって頼まれていたんだ。来てくれてよかった」
 ほっと胸を撫で下ろしたように言われて、私はどう答えればいいのかわからなかった。月哉のマンションに来たのは、再会したあのとき以来。約束を交わしたように今日までずっと、電話だけ。柏木さんに月哉の部屋のスペアーキーを借りてエレベーターに乗った。
 鍵を差し込んで、部屋の中に足を踏み入れる。静まり返った廊下にはひんやりとした空気が流れていた。
 「月哉?」
 声をかけながらリビングに向かう。ソファに面した窓はブラインドが降りていて、部屋の中は薄暗かった。月哉の姿がなくて、不安になりながら寝室に足を向ける。寝室のドアは薄く開いていた。間接照明の明りが洩れている。
 「 ――― 月哉?」
 ドアを開ける。寝室のカーテンも閉め切られていて、間接照明の橙色の光が弱く部屋を照らしていた。キングサイズのベッドがもりあがっているのを見つけて、ほっと息をつく。ベッドの側まで近づいた。その間も、ごほごほっと咳が聞こえてきて不安を抱く。わずかに上掛けをめくると、頬を赤くして苦しそうに咳き込んでいる月哉の姿があった。びっしょりと汗をかいている。人の気配に気づいたのか、目を瞑ったまま億劫そうに口を開く。
 「 ―― ひび、き。くるなって……言ったっごほっ!」
 ――― ごほごほっ、と咳を繰り返す月哉の額にそっと、手を乗せる。
 「そんなことばっかり言ってほんと、我がままなんだから」
 ハッとしたように月哉は目を開いた。潤んだ瞳は焦点があっておらず、ぼうっとしているように見える。額に乗せた手の平から伝わってくる熱も思ったより高い。
 「……れい、か?」
 「うん。薬飲んだ? 響さんが置いていってくれたらしいけど」
 額に乗せていた手を月哉の手が掴む。その手も汗ばんでいた。
 「夢じゃない?」
 「 ―― 月哉」
 噛み合わない答えに、少しだけ強い口調で彼の名前を呼ぶ。苦しげに熱い息を吐いて、月哉は苦笑した。
 「そのそっけなさは、冷夏だ……」
 再び咳き込む月哉に怒ることも忘れて、溜息をつく。握られた手をそっと握り返してからもう一度訊いた。
 「薬飲んだ?」
 眉を顰める姿に溜息をつく。この態度からして、絶対に飲んでいない。以前に付き合っているときもそうだった。風邪を引いたときは仕事があるから医師にはすぐにかかるけれど、薬は苦手らしく飲もうとはしない。最も、滅多に風邪を引くような体質じゃないみたいだけど。だからこそ、一度引いたときは酷くなる。
 サイドテーブルに視線を走らせると、きちんと薬の袋が置かれてあった。ペットボトルも何本か置いてある。そのうちの二本が空になっていた。水だけで治ると思ってるわけじゃあるまいし。
 呆れながら、薬の袋に手を伸ばす。握られている手を強く握った。
 「ほら。飲んで」
 袋には風邪薬と書かれてある。熱を下げるものと、抗生物質。適量を取り出して、月哉に差し出した。渋々ながら空いている手で受け取った月哉はそれを口の中に放り込む。次に渡したペットボトルの蓋を開けて水を飲み、薬を飲んだことを確認して胸を撫で下ろした。たったこれだけのことなのに、月哉は他の誰かのいるところでは頑なに拒否する。弱ったところを見られることを命取りだとさえ考えているところがあった。
 「少し眠って。起きたら、何か食べなきゃね」
 返されたペットボトルをサイドテーブルに置きながら言う。再び、手を掴まれた。ぎゅっと握り締められる。
 「冷夏お手製のおじや?」
 「うん。あと果物もたくさん買ってきたから、後で一緒に食べよう」
 後で ―― その言葉に安心したのか、握り締めている手の力が弱まった。ずっと握っていると、薬には睡眠を促す効果もあったのかすぐに眠ってしまったようだった。それでも聞こえてくる寝息は荒くて、心配になってくる。力の抜けた手をはずして、布団の中に入れてあげる。ベッドから離れて彼の服が入っているクローゼットを開けて着替えを準備して、サイドテーブルに置いた。ペットボトルを触るとすっかり温くなっていて、全部手に持ってから一旦寝室を出る。空になった分はゴミ箱に捨てて、残りを冷蔵庫に戻す。代わりに入っていた冷たいペットボトルを二本だけ取り出した。氷枕の準備をして、濡らしたタオルを一緒に持って再び寝室に戻った。できるだけそっと月哉の頭を動かして枕を抜き取り、氷枕を入れる。

 「 ――― っか、……で」

 不意に聞こえた声に、はっと息を詰める。起こしてしまったかな、と月哉の顔を見たけれど、彼の綺麗な青い目は閉じられたままだった。じっと見ていると、苦しげに乾いている唇が開く。

 「れい……いかな……で、」
 ( ――― 冷夏、行かないで)

 月哉の途切れ途切れの寝言が繋がったとき、心臓がぎゅっと掴まれたみたいに痛くなった。熱いものがこみあげてくる。嗚咽を零しそうになって、慌てて飲み込んだ。代わりに、できるだけ優しく伝わるように。夢の中の月哉に聞こえるように、そっと囁く。
 「行かない。もう離れない。月哉の傍にいる」
 まだ、一緒にいれるまでは後一年あるけれど、二度と三年前のように勝手に離れたりはしない。少なくとも、月哉が私を好きでいてくれる限り。

 声を聞き取ったわけじゃないはずなのに、想いが通じたかのように、月哉の表情がほんの少し緩んだような気がした。安心したように寝入る彼の姿に涙が浮かんできて、手の甲で拭う。このまま傍にいると、泣き声で起こしてしまいそうで濡れたタオルをそっと月哉の額に置いてから、扉は開けっ放しのまま寝室を出た。廊下まで行って、壁にもたれる。手の平で口を覆ってから月哉を苦しませてしまったことへの罪悪感に、涙を零した。

 ――― 鍋の蓋を取って、出汁をすくい取って味の加減をみる。
 叔母さんに教えてもらった味に頷いた。
 「おはよう」
 急にそう声をかけられて、びくりと肩が揺れてしまった。驚いて振り向くと、月哉が台所の入り口に壁にもたれて立っていた。ごほっと咳をするけれど、頬の赤みは少し引いている。
 「もう夜よ。無理に起きてこなくても、ベッドまで運んだのに」
 「ベッドで食べるの、好きじゃないんだ。それに寝てばっかりでいると、病人になった気がするから」
 「 ――― 病人でしょ!」
 返事をする間も咳を繰り返しているくせに、呆れてしまう。
 「それに、冷夏が台所に立つ姿が見たかった」
 いまだ熱で潤んでいる青い瞳でじっと見つめながらそんなことを口にするから、かっと一気に頬が熱くなった。
 「月哉っ!」
 「あれ。うつったかな、風邪?」
 からかうような口調に、すっかり普段の彼だと怒るよりも安心してしまった。
 「いいから、ベッドが嫌ならソファで横になってて。上掛けも置いておいたから寒くないようにちゃんとかけてね」
 月哉がベッドから抜け出してくるのはお見通しで、ちゃんと用意していたことに彼も虚を突かれたように目を見張って、だけどすぐに笑みを浮かべた。肩を竦めてはいはいと背中を向けてリビングに向かう。その後ろ姿はどこか嬉しそうに見えた。

 ソファの上に座ってなぜか月哉と一緒に毛布に包まりながら、ひとつの皿に入れたおじやを時々月哉に差し出されながら食べていた。
 「病人と一緒のものを食べるって、私絶対に風邪引く」
 スプーンですくって月哉に食べさせる。
 「いいよ。ベッドは大きいから二人で眠れるし」
 今度は月哉がスプーンを取って、私に食べさせてくれる。
 「なんで、春休み早々風邪引かなきゃならないの」
 呆れながら、今度はちょっと多めに取ってから月哉の口の中に放り込んだ。あつっ、とあがった声にザマーミロと思ってしまう。だけど、次に月哉が差し出してきたスプーンいっぱいのおじやに冷や汗が流れる。
 「風邪薬も余ってるから、飲めばいいよ」
 「……他人に処方された薬なんてイヤ」
 全部は口にできないから半分だけ食べた。残り半分を彼はそのまま自分の口の中に運ぶ。そうして、最後まで食べきってしまった。私はソファに座って、月哉に抱き締められたまま手を伸ばしてテーブルの上の薬とペットボトルを取って彼に渡す。受け取った月哉の顔は見ないふりをした。きっと、嫌そうな顔をしているのはわかりきっていたから。
 ごくりと水を飲む音が聞こえて、諦めて薬を飲んだとわかった。咳がまだ止まらないのに我がままなんだからと呆れたくなる。それがわかったのか、冷夏、と宥めるように耳元で囁かれた。ぎゅっと毛布の中で抱き締められている腕に力がこもるのがわかって胸が高鳴る。何だかんだと言っても、久しぶりに月哉と会えたことは嬉しかった。
 「 ―― 会いたかった」
 甘い言葉と熱い吐息が直接耳の中から入り込んでくる。ぞくりしたものが背筋を走り抜けた。
 「わっ、私も会いたかったけど、ちょっと月哉。大人しくベッドに行って寝ててっ!」
 まさかただの風邪薬のはずが、変な効力でもあるわけじゃ ―― そう思っている間にも月哉の手の動きは大胆になっている。いつもと違って熱い手の平に、心臓がばくばくと激しく音を鳴らしていた。
 「明日には帰るんだろう? 今日しか時間がないなら有効活用しないと ―― 」
 「明後日までいる! いるから、風邪治してっ。それからにしようっ?」
 腹部から這い上がってくる月哉の手を抑えながら混乱気味にそう言う。ぴたっと動きは止まって、あっさりと手を抜かれた。代わりに手を握られる。
 「じゃあ、あっちのベッドで一緒に寝よう。ご飯も食べて薬も飲んだ。明日にはきっとすっかり治ってるから」
 そう言って立ち上がった月哉の顔を見上げると、にっこりと笑顔を浮かべていた。
 「 ――― っ、月哉!」
 「はいはい。病人に文句を言わない。うつってるかもしれないから、冷夏も一応市販の薬飲んで。早く寝るよ」
 手を引っ張られてソファから立ち上がらせられる。そのまま連れて行こうとする月哉の背中を見ながら、もしかしなくても騙されたことの気づいた。もしかして風邪もこのために ―― そうは思ったけど、前を歩く彼の咳をする姿に流石にそれはないかと思い直す。それでも、活用できるものは遠慮なく、というスタンスは変わってないみたい。
 背筋をぞくぞくとしたものが走ってくるのを感じながら、どうか課題をする時間がありますように、と願って寝室のドアを閉めた。
モクジ
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