たとえば、君に ―
たとえば、こんな日常を
その裏に情熱を持っていようとも、基本的にえっちゃんは穏やかな性格をしている。まさに結婚したいナンバーワンをキープし続けることが頷けるほどに優しい。だから結婚して三年。喧嘩はしたことがなかった。いつだって譲歩し合う。相手の譲れないところは理解して。たまにされる嫉妬だってカワイイもの。前に離れようとしたあの時間があったから、えっちゃんのすべてを受け入れることができていた。とても自然に。とても愛おしく。そして、二人の間には女の子がひとり。えっちゃんに似てくれたら可愛いこと間違いなしだったのに、どちらかと言うと私に似てしまって。だけどきっと溺愛、その言葉がぴったり当て嵌まるほどにえっちゃんに可愛がられている。
残念ながら可愛いがるイコール懐かれるじゃない。意外なことに我が娘が最も懐いているのは、流監督だった。「みー姫」「なーくん」の間柄。ちなみに娘の名前は「美麻」。
保育園でぱぱの似顔絵を描いたと持ってきた。えっちゃんには似ていないその絵の特徴を照らし合わせるとどうも監督らしい。愕然としたえっちゃんは、監督と美麻を会わせないよう画策していた。大人げない。私も監督の奥さんも呆れてしまった。
「ママ、なーくんはたいへん?」
「大変?」
机に向かって次回作の舞台の脚本を考えていたら、三歳の誕生日に監督からもらった絵本を熱心に読んでいた美麻が傍に寄って来てそう首を傾げた。データを保存して、小さな美麻を膝のうえに抱き上げる。
「えったんがジャマはめーって」
うるうると悲しみに溢れた瞳で見つめてこられて言葉につまった。またか、と思ってしまう。つまり、えっちゃんが流監督は忙しいと美麻に言い聞かせてるだけ。嘘はつかないえっちゃんだけに質が悪い。確かに舞台公演中のいま多忙なのは事実。だけど美麻が邪魔だとは思えない。逆に美麻が行くと監督の雰囲気が柔らかくなるとスタッフには大歓迎を受ける。机の卓上カレンダーを見て、スケジュールが立て込んでないことを確認した。
「美麻は流監督に会いたい?」
少し首を傾けて美麻はんーっと考えた。すぐにぱっと顔を輝かせる。
「会いたい!」
「じゃあ差し入れ持って会いに行きましょう!」
わーいっと喜んだ美麻に笑顔を返した。
タイミングが悪いにしても、ここまでと呻きたくなるタイミングの悪さに溜息さえも引っ込んでしまった。流れるひやりとした空気の中で、美麻は無邪気な笑顔で大好きなひとを見つけて駆け出した。
「たーたんっ!」
明るい舌っ足らずな声で呼びかけられて、ただでさえ固まっていた彼は更に下がった気温に凍りついた。だけど、やっぱり美麻は関係ないとばかりにぎゅっと彼に抱きついた。――― えっちゃんのマネージャー高見さんに。
(美麻……。えっちゃんが隣にいるのに……。)
ここで最初に飛び出した言葉が「パパ」なら空気は柔らかいものに変化したはずなのに。ああまったく、我が娘は大物なのか ―― 鈍感なだけなのか。母親に似たのなら、恐らく後者だろうけれど。
「やぁ、美麻。パパに会いに来てくれたのかな?」
苦い笑みを零して、高見さんの足元に縋りつく美麻にしゃがんで視線を合わせるえっちゃんは、あくまで雰囲気は娘を溺愛しながらも苦手とされてちょっと戸惑っている、という困惑したものを纏っている。その姿に同情を覚えたのか、美麻は「えったん」とようやく高見さんから離れてえっちゃんの首に抱きついた。満足そうに頬を緩める顔に、「子どもまで騙すかっ!」と私と高見さんのツッコミが入る。あくまで心の中で。えっちゃんは抱きついてきた美麻を抱き上げたまま、私のところまで歩いてきた。
「会いにきてくれて嬉しいよ。寂しかった?」
甘い微笑みを浮かべながら言われる言葉に胸は高鳴るけれど、呆れてしまう。子どもの前なのに。付け加えて言うのなら、朝はちゃんと家で会ったのに。それでも、いつだって会っていたいのは一緒の気持ちだから頷くと、頬にキスをされた。
「えっちゃん!」
「せっかくだから練習を見ていけばいいよ。終わったら後は何もないし。一緒に帰ろう」
抗議の声は無視するようにゆったりと微笑んで言われて、しょうがないなぁと呆れるしかなかった。だけど、一緒に帰る。その言葉は何年経っても嬉しいもので、温かいものが胸に広がっていくのを感じながら微笑み返した。
「おお。騒がしい声が聞こえると思ったら、おまえら来てたのか」
楽屋の入り口から声が聞こえてきて振り向くと流監督が立っていた。それを見つけた美麻がぱっと笑顔を輝かせてえっちゃんの腕を叩いた。
「みー姫! よく来たな!」
「なーたんっ!」
降ろして、とばかりにえっちゃんの腕を叩く美麻を複雑そうに見ているえっちゃん気づいて、深く溜息をつく。
「…………えっちゃん。降ろさないと、美麻が泣き出すからやめて」
警告すると、本当に渋々と美麻を床に降ろす。拘束を解かれた美麻はそれこそ一目散に監督に向かって走り出した。両親に心を残す欠片も見せずに。
上機嫌で抱き上げる監督と、しっかりと監督に抱きついてキャッキャッとはしゃぐ娘を見ながら、我が娘の親離れは早そうだと苦笑する。
「ちひろ」
表面上は冷静さを保って隣に佇んでいるえっちゃんに静かに名前を呼ばれて嫌な予感を感じた。そろりと視線を向けると、にっこりと笑顔を向けられる。
「もうひとりは頑張ろう」
「 ――― もうひとり、は?」
それは複数形も含まれていないだろうか。しかし、返事はなくて、更に問い詰める前に高見さんに呼ばれたえっちゃんは舞台の打ち合わせをすべく、美麻を抱き上げている監督に恨めしげな視線を向けて、楽屋を出て行った。
「おまえたちも見ていくんだろ?」
えっちゃんの視線を受けながらも意地の悪い笑みで受け流した監督がそう声をかけてくる。
「ここで置いて帰ったら、いろいろ大変なことになりそうな気がします」
「みまもいい子で見てるよ!」
「うん。美麻はいつだって良い子だ」
監督にがしがしと乱暴であるにも関わらず撫でられた美麻は嬉しそうに笑う。三人で舞台練習がある場所に向かいながら、ふと苦笑を零す監督に気づいて、なんですかと視線を向ける。
「何人作ったって、家にいないあいつが子どもに懐かれるのは難しい問題だな」
その言葉にさっき、えっちゃんに言われたことを聞かれたと知って頬に熱が集まる。だけど、そう。確かに監督の言う通りだと思う。舞台、ドラマや映画で何週間、長いと何ヶ月だって家を空けるえっちゃんが子どもに懐かれるのは難しいはず。その間、手伝ってくれる監督の奥さんや遊んでくれる高見さん、そして監督に勝てる日がくるのかはわからない。
「だけど、素敵なパパですよ。ねっ、みー。パパのこともちゃんと好きでしょ?」
「うんっ。みまはパパをあいしてる!」
好きかと返事を求めたのに、愛してると躊躇いなく返ってきた言葉に監督と二人ぴたりと動きが止まる。にっこりと笑う姿はやっぱりえっちゃんの娘らしく面影が重なる。
「みー姫。そんな言葉どこで覚えたんだ?」
「パパいっつも、ママに言ってるもん!」
えっへん。
胸を張って言われて、素敵なパパと口にしたことを後悔すべきかどうか迷ってしまった。
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