たとえば、君に ―

モクジ

  たとえば、こんな理由で  


 「悪いが、そういうものには出ないって言ったはずだよ」
 私が珈琲を淹れて持っていくと、ダイニングの椅子に座っていたえっちゃんが不機嫌な口調を隠そうともせずに言った。向かい側に座っている高見さんが困惑した顔つきで、頼むよ、と繰り返している。好奇心から私は昼食後の珈琲が入ったカップを二人の前に置きながら、有難う、と言うえっちゃんの隣に座って高見さんに訊いた。
 「どうしたの、高見さん。新しいドラマ? 映画?」
 「ちひろ」
 諫めるような、困ったような声で名前を呼ぶえっちゃんを無視して、高見さんもよく聞いてくれましたとばかりに胸を張って言う。
 「新作ドラマがこの春から始まるんですが、そのドラマの出演者たちと宣伝みたいなものですよ。ほら、よくある、アトラクションをクリアーして金貨を貰って賞品やら海外旅行を貰えるっていう!」
 その説明に一つの番組名が思い浮かんで、ああっ、あのっ、と声を上げると、それです、それとご名答とばかりに高見さんは笑った。次の瞬間には小さく息を呑んだのを見て、彼の視線を追っていくとえっちゃんが珍しく怖い顔つきでひたりと見据えているのを見つけた。
 「えっちゃん、出ないの?」
 慌てて高見さんをその視線から救うために話題を振ると、たちまち優しい微笑みを浮べてくれる。だけど、でないよ、ときっぱり断言した。
 「そういうのは若い奴らに任せるよ。俺はパス」
 「運動音痴じゃないでしょう。もったいない」
 えっちゃんが器用なことは知っている。料理だって任せればレストラン顔負けに美味しいものを作れるほど手先は器用だし、運動だって、流監督を含めた仲間内でバスケットボールやテニス、サッカーや野球、ビリヤードをするときも負けたところを見たことがない。
 「もっと言ってよ、千尋さんっ。今回はどうしても悦さんに出て欲しいんだよ」
 お願いします、と両手を合わせる高見さんに逆にどうして、と訊くと、やっぱり困ったように彼は眉根を寄せた。捨てられた犬みたいな顔で、可哀想になってくる。
 「他も有名どころは断られてさ。出演がほとんど若手新人になっちゃったから視聴率取れないかもしれないんだよ。そんなんだと番組にも関わるし、最初に軌道に乗せておきたくて……」
 「どんな事情があっても、俺が自分の主義を翻すわけないって、高見ならわかってくれてると思ったけど」
 はぁ、と深い溜息を零すえっちゃんはすでに演技に入っている。信頼を裏切ることが ― 特にえっちゃんの ― いちばん恐ろしいと断言する高見さんの顔からは見る見る血の気が失われていく。それが可哀想で、見ていられない。
 「高見に同情するなら、その代償は大きいよ」
 先回りして言われた言葉に開きかけた唇を慌ててきゅっと引き結んだ。低いその声音は本気で怒りかけているとわかる程度には二人の付き合いは長い。それでもうっかり口にしようものなら、じわじわと様々な手段を使って復讐されるに決まってる。ごめんなさい、高見さん。私も自分の身が大切なの、と心の中で合掌する。
 「頑張れば好きな賞品が手に入るんだよ?」
 「自分で買えるくらいには稼いでるつもりだけどね」
 必死に頼み込んでくる高見さんを聞き入れるつもりはまったくないのか、えっちゃんは肩を竦めてあしらう。
 「じゃあ、休暇と引き換えにするから。賞品に旅行を選んでさ。五日間でも十日間…は厳しいから一週間くらいで、千尋さんと行けるようにペア宿泊券っ。豪華ホテルでも、個室、露天風呂つき温泉旅でも! お小遣い二十万円分もおまけで」
 ちょっと待って、と思わず飲んでいた珈琲をそのまま流し込んでしまった。けほっ、と咽て、それどころじゃないと慌てて遮ろうとしたら、隣でえっちゃんがわざとらしいくらい大きな溜息をついた。厳しい顔つきで高見さんを見つめている。そうよね、そんなことで動かされるようなえっちゃんじゃあるまいし。ほっと、胸を撫で下ろして、これからえっちゃんに叱られる高見さんに勝手に私を引き合いに出すから、と突き放した視線を送る。
 「イメージが壊れそうなアトラクションはしないっていう条件なら出てもいい」
 「 ――― は?」
 一瞬、聞き間違いかと思った。
 「仕事があるから五日でいい。個室に露天風呂つきで、美味しい料理があるところを頼んだよ。ちゃんと下調べして、資料を持ってきて」
 「えっ、ええええっちゃん?」
 驚愕して声を上げる私に嬉しそうに微笑んで、「滅多に休みが取れないから、いい機会だよ」とそれまでの拒絶がなかったかように頷いた。えっちゃんの気が変わらないうちになのか、高見さんは涙を浮かべて「ありがとう!」と大げさに言いながらじゃあ、スケジュール調整があるから、詳しくはまた明日っ、とそそくさと出て行った。見送りもできずに、呆然とえっちゃんの顔を見つめる。
 「結婚してから休みなしだったから、丁度よかった。新婚旅行と思って、ゆっくりしよう」
 確かに結婚は届けだけ出して、あとはお互いに仕事が忙しかったから、いつもと同じようになかなか会えない日々を送っていた。だけど帰る場所は一緒だし、今まで以上に同じベットで眠っている。不満はないのに、と思いながらも、そんなことを言ってくれるえっちゃんに幸せな気持ちになる。そのために、苦手な番組にまで出演してくれるというなら尚更 ――― 苦手?
 最初に思ったように、えっちゃんはスポーツは得意だし、ましてもう賞品を取ったことを前提に言っている。それに気づいて、もしかしてと視線を向ける。
 「高見さんが休暇云々を持ち出すまでごねるつもりだったの?」
 「ごねるって……。そうでもしないと、休暇なんて取れないだろう。今は俺はちひろと一緒にいたいからね」
 明らかに計算しての言葉に溜息をつく。
 「じゃあ、他の有名な役者さんが断ったっていうのもえっちゃんの手回し?」
 「これでも俺は人付き合いは上手なほうだよ」
 にっこり、と満面の笑顔を浮かべる。恐らくこれがテレビカメラの前で撮影された表情なら失神する女性が大勢出ること間違いなしだと思う。その心の中が真っ黒だと知っている私でも頬を染めずにはいられなかった。

 だからこそ、「個室で露天風呂つき」という不穏なえっちゃんの言葉をそれが現実になるまですっかり忘れてしまっていた。
モクジ
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