たとえば、君に ―
たとえば、こんな特別を
その日の前日、千尋は適当に着替えをバッグの中に詰め込んで、急いでマンションを出た。向かう先は、祖父母が残してくれた、海近くにある別荘。
脚本家として駆け出しの彼女には都会でまだ学ばなければいけないことが沢山あったので、二人が亡くなってからは滅多に足を運ばなくなったものの、きれいに管理はしている。だからこんなふうに突然行っても不便は感じないはず。いつもの自分の居場所から離れたくなったときに行ける場所があることに感謝しながら、わきあがる焦燥に突き動かされるようにとにかく急いだ。
途中、携帯電話が幾度か震えたけれど無視していたら、ぱったりと鳴らなくなった。仕事の用事はファックスか留守電を設定しているから急用なら伝言を残してくれる。あえて、誰からの電話も出る気はなかった。そうは思っても、電話の電源を落せないのがまるで、未練みたいで。
別荘に着いて、とりあえずリビングの窓を開ける。
入り込んでくる爽やかな風が、同時に海の匂いを運んできた。その懐かしい感覚に、感じていた焦燥は拭い去られて、ほっと胸を撫で下ろす。潮の香り。波の音。そうして幼い頃に祖父母と訪れたときのままの、温かい空間。ここでは、そのすべてに守られるみたいになる。
(こんなふうに逃げ出すなんて、私らしくない……。)
どんなに寂しさを感じても、大丈夫だと自分に言い聞かせて前に進んでいた。両親がいなくても。祖父母が亡くなって、家族という存在を失い、そうした人たちと過ごすイベントが訪れて、余計に独りを感じさせる日があっても。友達と一緒に笑って過ごしたり、脚本家になって広がっていく付き合いの中で誘われるパーティに出掛けていったりして、紛らわせてきた。
それに、千尋は愛されて育ってきた。それがわかっているから、今もまだその愛に包まれていることを感じているから、独りぼっちだと自分を惨めに思うことだけはしない。しなかったのに――――。
一瞬だけ。
脳裏に浮かんでしまった面影は、引いていく波の音に浚われていった。
――――千尋ちゃんも、来るでしょう?
もちろんよね、と話しかけてくる女性は、可愛らしく首を傾けている。これが業界で、“あの”と恐れられている流監督の奥さんだと思うと、付き合って数年とはいえ、いまだ慣れない部分があった。元は舞台女優だったということもあって、綺麗な顔はその仕草を嫌味なく自然な流れにしてしまう。けれど、話を聞いていなかった千尋は、目を瞬かせた。
「え?」
「クリスマスパーティよ。例年のように大きな規模の集まりをホテルでじゃなくて、りゅうき君が身内だけを呼んで我が家で開くの。身内だけって言っても、やっぱりそれなりになっちゃうから、千尋ちゃんが手伝ってくれると嬉しいんだけど、予定がある?」
身内、という言葉が嬉しくて思わず頬が緩む。
さりげない彼女の気遣いは、流監督と通じるところがあって、いつだって優しい気持ちにさせてくれる。
「大丈夫です。てつだ――」
「悦さんも男手として手伝ってくれるっていうし。あの人ったら、有名俳優になったからって上げ膳据え膳されると思うなよ、ってこき使う気満々なの」
そう言って楽しそうに微笑む奥さんの姿とは裏腹に、スッと血の気が引いた。さっき感じた優しい気持ちが一気に凍り付いて、顔が強張るのがわかる。
(えっちゃんが来るってことは――。)
普通のパーティじゃない。
クリスマスという、家族や恋人同士で過ごすイベント。そういう日に、彼と一緒にいることは、付き合うと覚悟したときに全部諦めていた。ずっと、あの温かく大きな手に繋いでいてもらえるのなら、特別な日に一緒にいられなくてもいい。だけど。だからといって。
こみ上げてくる不安を飲み込んで、声がふるえないよう気をつけながら、さりげなく尋ねる。
「えっちゃん、奥さんも連れてくるんですか?」
「さぁ。一応、今度のパーティも夫婦で招いているけど、まだ返事はもらっていないわ。悦さんって、我が家のようにウチに入り浸っているわりに彼女を連れてきたことはないのよねぇ」
怪訝そうな言葉に、私は適当な愛想笑いを返す。
下されなかった罪への判決に緊張が解ける。けれど、同時に不安も広がって、複雑な気持ちになった。
とりあえず、時間があったらもちろん、手伝いますね、と不安を抱えたまま返事をして、有難うと、満面の笑顔で言ってくれた奥さんに、ほんの少し救われた気持ちになる。
それでも、罪がなくなるわけじゃないのに。
数日後、急に仕事が入ってきた。
大学時代の同じ演劇サークルで、卒業してからは小さな劇団に入った後輩から脚本を書いてほしいと依頼された。そのスケジュールを知ったのは、頷いてからで、お正月明けてからの公演だから、せめてクリスマスまでには完成させてほしいと言われた。他の仕事は終わっていたし、今年最後の仕事は流監督とのクリスマス公演―パーティはその打ち上げも兼ねて―で、脚本はすでに出来上がっていてもう役者さんたちの練習は本番へ向けてのラストスパートに入っている。丁度余裕もあったから引き受けたのに、締め切りまで残り二日もない。
「……ここで彼女と彼を登場させて……それから、彼が」
クライマックスとなる場面をパソコン画面に打ち込んでいると、不意に携帯が鳴った。着信音が相手は流監督だと教えてくれる。
「監督?」
『おぉ、相模。今いいか?』
監督の言葉に頷くと、年明けてから始める舞台の脚本のプロットとスケジュールの相談を持ちかけられて、だったら今から幾つかの資料を持って会いに行きます、と応じた。
「どこにいるんですか?」
『あー。いつもの練習場だ。明日からクリスマス公演だろ?悦が少し気になるところがあるから詰めておきたいと言い出して、つき合わされてる』
悦、という名前にどきんっと胸が高鳴った。電話を持つ手に力が入る。
「わかりました。じゃあ、二時間くらいでそっちに行けると思います」
『ああ、こっちも時間が空くのはそれぐらいになると思う』
監督の言葉を聞いてから、失礼しますとボタンを押した。
打ち込んでいた脚本の区切りがいいところまで終えてから、パソコンの中に入れている監督との話し合いに必要な資料を印刷する。プリンターが動いている間に出掛ける準備をしてから、資料をバッグに詰め込んで、パソコンの電源を切った。
(えっちゃんもいるんだ……。)
付き合い始めた当時は、会えると思うだけで嬉しくて舞い上がってた。一秒でも早く逢いたくて、別れるたびに胸が苦しくなって。またすぐに逢いたくなって。舞台がある時は直接会いにいけたけど、ない時期には彼が出ているコマーシャルやドラマ、映画をチェックしたり、我慢できなくなったときには、思い切って電話をかけたりもした。些細なことを話しているだけで心臓が破裂してしまいそうな勢いでどきどきして。
会えることが嬉しくなくなったわけじゃない。
――――ただ、あのときみたいに素直な気持ちのままでいられなくなっただけで。
真剣な空気に惹きこまれる。彼を包み込む雰囲気はたちまち演じている役柄そのものに変わり、見ている者を同じ時代、場所――ひとつの処に引き込み、気持ちを重ね合わさせる。男性は彼が感じている苦しみも、切なさも自分のもののように。女性はそんな痛みを与えているのがまるで自分自身でもあるかのように――――。
自分が脚本家であること、そうであって流監督にはもちろんだけれど高幡悦という俳優に出会えたことは一生分の運を使い果たしたと思わずにはいられない。彼の演技を目の当たりにするたびに、それが自分の脚本であることに奇跡といっても大げさにはならないほどの、現実を噛み締める。
「――よぉし。練習はこれで終わりだ。あとは本番!」
隣で座って見ていた監督が舞台で演じ、練習していた役者たちに向かって終了を告げた。その声を合図に舞台袖に戻っていく彼らをよそに、主役の高幡悦だけが舞台から直接降りて、客席に近づいてきた。
「相模さん、来てたんだね」
やわらかな微笑みを向けられて、胸がどきんと高鳴った。注がれるダークブラウンの眼差しは甘く、身体の奥に燻る熱を思い知らされる。頷き、返事をする前に遮ったのは監督だった。
「俺との打ち合わせがあったんだ。ちょうどいい、悦。スタッフに撤収するよう伝言を頼む。相模、喉が渇いたから下の喫茶室で飲みながらな」
自らの舞台俳優に伝言を頼み、さっさと出入り口に向かう姿は、あまりに監督らしくて勝手だと思うより、おかしくて頬が緩む。無名であろうと、有名になろうと態度の変わらない監督に一目置いているえっちゃんもまた、可笑しそうに笑いを含んだ声で了解、と返事をした。
監督の後に続こうとして、不意に腕を取られる。
「――今日はこれで終わりだから、部屋に来て」
囁かれた言葉は、喜びと――わずかな。
はっと息を呑んで、顔を向けようとしたときには、すでにえっちゃんは踵を返して、舞台にいるスタッフへと声をかけていた。
つかまれた腕を手で触る。優しい力だったのに、その感触は痛みになって胸を苦しくさせる。こみ上げてくる感情が涙になって溢れてくるその前に、視線を外して監督の後を追うことにした。
一階にある喫茶室に向かうために階段を降りようとして、聞こえてきた声に思わず足を止める。
「……悦さんの? クリスマスは公演が最終日なので、打ち上げも兼ねてのパーティが流監督のところで――え?」
立ち聞きしたいわけじゃないけれど、ちょうど階下の広場で話しているのか聞こえてしまう。邪魔はしたくない。そう思いながらも、顔見知りなのだからごめん、と言って通り過ぎればいいだけの話で、身動きしようとしないのは、もしかしてと思う気持ちもあったからかもしれなかった。
「もちろん、夫婦同伴でかまわないと思いますよ」
――というよりも、夫婦で誘われているはずなのに。
同じように疑問に思ったはずなのに、返事はもちろん、声にさえ微塵もその感情を表さない所が高見さんが敏腕マネージャーたる所以なのかもしれない。
そんなどうでもいいことを思いながら、いつのまにか手摺を掴んでいる自分の手に気づいて見下ろす。無意識に込めていた力をどうにか緩めて放すものの、小さく震えてしまうのはどうしようもなくて。
ひどく惨めに感じるのも、すべて自業自得だからと言い聞かせる。わかってて付き合った。我慢できると、自信があった。わがままは言わないと心に決めていた。そうであっても、えっちゃんの手を取りたいと思ってしまったのだから。
だけど――ほんの少し。
このままだと自分を見失ってしまいそうで怖かった。
部屋に来て、と言ったえっちゃんの言葉が脳裏に過ぎる。
会いたい――会って、弱気になる気持ち丸ごと抱き締めてほしい。愛していると言われなくても、大丈夫だと受け止めてほしい。そう願うほど、会うわけにはいかないことを自覚する。弱音を感情のまま曝け出せば、言ってはいけないことまで吐き出してしまいそうで。
そう思った途端、冷水を浴びせられたような感じがした。えっちゃんに見つめられたときに身体の奥で燻り始めていた熱が急激に冷め、背筋に寒気が走る。
(今夜は会えない……!)
そう心に決めて、高見さんがいなくなった階下への階段を降りきった。
あのあと、監督との打ち合わせをどうにか終えて、仕事の締め切りがあるからクリスマスのパーティには行けなくなったと断りを告げ、えっちゃんにはメールを入れた。急用ができたから行けないと、そう送信してしばらくしてからあった電話には出ていない。
次の日、独り部屋にいることが苦しくて、別荘に向かうことを思い立った。
クリスマスまでに、と頼まれていた脚本も昨日残りわずかだった部分を書き上げて今朝、別荘に置いていたパソコンのメールで送っておいた。
ふと、時計を見れば2日間のクリスマス公演も終わり、そろそろ流監督の主催する打ち上げ兼クリスマスパーティが始まる頃で、例年の騒がしさを思い出せば、ひとり海の側で波の音を聴きながらの、静かなクリスマスもそう悪くはないかもしれないと思った。もっとも、祖母が生きていたら、『相変わらず、強がりね。千尋は』そう困ったように笑って、頭を撫でられていたかもしれないけれど。
懐かしい面影を浮かべてしまったことで寂寥が胸を満たし、この場所にいることも合わさって、素直に涙が頬を伝っていくのを感じた。
「――本当に、妙なところで頑固だよな。ちひろは」
聞こえてきた声に、驚いて顔をあげる。玄関に続くドアを振り向けば、電気のついていない部屋でわずかに差し込んでいる月明かりの中、ここにいるはずのない男性(ひと)が佇んでいることに息を呑んだ。
いつもふたりで会うときの、ラフな格好じゃなくて。きっちりと身につけている黒いタキシード姿は他の人なら違和感を覚えてしまうのに、日本人であっても見惚れてしまうほどに似合うのはきっと彼くらいだ。結んである赤いタイも磨かれているカフスボタンも胸もとのシルクのハンカチも調和が取れて、その魅力を倍増させる。
まるで、幻を見ているみたいだと思った。神様からの贈り物。三十になろうという女がそんなロマンチックな考えを持つなんてどうかしてると思いながらも、そう夢見てしまうほどに目の前に立つひとが、現実にいるとは信じられずにいた。
それなのに――――。
「ちひろ」
彼独特の呼び方。そう呼ばれるだけで、胸が熱くなって我慢していたすべてが溢れ出そうとしてしまう。
「……えっちゃん、どうして」
どうしてここにいるの?
パーティは? ―――さんは?
頭の中は疑問で一杯なのに、どれも言葉にならなくて、感情をせき止めていたなにかが壊れてしまったように頬を熱いものが流れていくのを感じた。ぼやけていく視界に、えっちゃんの姿が歪んでいくのがもったいなくて涙を止めようと手の甲で拭おうとし――大きな手のひらに包み込まれる。
「なにをするより、だれと会うよりも、ちひろに逢いたくなったんだ」
余計な質問をさせないように、それだけが真実であるかのような強い口調で、えっちゃんが言う。
だけど、言葉よりなによりも、伝わってくる温もりだけが千尋が唯一縋れるものだ。包み込まれている手に力を込めて握り締める。途端に引き寄せられ、頬が彼の胸にあたった。細身に見える身体とは違って、実際はほどよく筋肉がついている。上質なタキシードのうえからもそれが感じられて、どきりと胸が高鳴った。
「……どれだけ我慢すれば、本音を言ってくれるようになるのかな」
ぽつりと零された言葉に、はっと顔をあげる。
切なげに見下ろしてくるダークブラウンの瞳に吸い込まれそうになって、息を呑む。求められていることがわかるのに、与えられないことが苦しい。
思わず顔を俯かせるけれど顎に手がかかって、上向かされた。
「えっちゃん……」
何を言おうとしたのか自分でもわからない。
それでも、えっちゃんが言葉はいらないと口づけてくるから、今はまだその想いに甘えるようにただ、手を回して彼の首に抱きつく。
「メリークリスマス、ちひろ」
深まっていくキスの合間に囁かれた言葉とすべてを包み込むような波の音が、今夜だけの特別を許すかのように千尋には聴こえていた。
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