優しく、強い絆

 ベッドの上で疲れたように眠っている優の顔を見つめる。幸せそうな表情に見えるのは我侭かもしれない。顔にかかっている一筋の髪をそっと横に流してやる。溢れてくる愛しさに、抱き締めたくなってぐっと堪えた。ダメだ。このまま顔を見てると、抑制が効きそうにもない。燻る熱を吐き出すように息を吐き出して、ベッドから離れた。

 寝室の扉を少しだけ開けっ放しにして、リビングに向かう。中央に置いているピアノに足を向けて、椅子に座ると邪な欲望は消え去り、気持ちが引き締まるような気がした。ピアノの蓋を開けて音を鳴らしてみる。ぽーんぽーん、と軽く人差し指で遊ばせた。調子はいいな、と苦笑して、適当に曲を弾き始めた。ピアノを弾いている間は何も考えずにすむ。何も、というのは違うかもしれない。曲のイメージが頭の中には浮かんでいる。作曲者の想い、背景、そうして引き起こされる自らの曲の解釈。

 暫くして、曲の途中から感じていた人の気配に振り返った。

 「何か用事だったか?」
 「休みの日に可愛い弟がきたら迷惑なのかよ」
 ぶすっと拗ねた声で壁に寄りかかっていた弟、透夜がそう返事をした。肩を竦めて、悪いと素直に謝っておく。
 「迷惑じゃないさ。何か飲むか?」
 透夜は頷いて、壁から背中を起こした。リビングにあるテーブルに移動しながら、ふと寝室がある場所に視線を向けるのを見て、行くなよ、と釘を刺す。アッサムの葉が入ったポットにお湯を注いで、盆にひっくり返して置いていたカップと一緒にテーブルまで持っていく。そういえば、と思いついたように言われた。
 「親父から伝言。例の女には圧力掛けておいたからって。もうホテルには行かないと思うぜ」
 その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。葉っぱが開いた頃合を見て、カップに紅茶を注いだ。勧めるよりも先に、透夜は無造作にカップを取ると口に含んだ。その遠慮のなさに苦笑が零れる。我が弟ながら、まったく、と呆れながら自分もカップを持ち上げた。
 「助かったよ」
 そう言って、紅茶をゆっくりと飲み込む。いつもならうるさいくらいに日常あったことを話してくるのに、黙り込んだまま、気まずそうに俯いている顔を見て、息をつく。仕方がない、と促してやった。
 「話せよ。優なら暫く起きてこない。眠ったのは今朝だしな」
 そこで顔を真っ赤にさせた弟に、思春期だなあ、と笑みが零れる。まったくもって可愛らしいというか。何を想像したのかと突っ込んでやりたかったが、わざとらしく答えた自分にも非がある。違うぜ、と否定したやった。
 「来週からテスト期間で、優は課題とテスト勉強してたんだ。それを満点でクリアーすれば、暫く俺と一緒に住んでいいって許可もらってさ」
 「へ、へえ……」
 動揺していたのを誤魔化すように、透夜は頷いた。心を落ち着けるためか、もう一度紅茶を流し込む。おいおい、熱いだろう、と呆れたと同時に、案の定「あつっ」 と慌ててカップをテーブルに置いた弟は唇に手をやった。
 「なにやってんだ」
 肩を竦めると、拗ねるように睨まれた。真っ向から受け止めてやると、急にふいっと視線を逸らされる。

 「……なあ。まだ、大丈夫だよな」

 不意にそんな言葉を口に出されて、逆に驚いた。驚いたけれど、態度には出さずに、動揺を押し隠すために紅茶を一口啜る。温かいぬくもりは、まるで優のように甘く、心がほっと優しさに包まれる。

 「ああ。あたりまえだろう」

 「だったら、いいんだ。親父たちも心配してたから」
 「毎日電話はしてるぜ。暇なときは帰ってるだろ」

 いつもアパートやホテルに滞在しているわけじゃない。実家は目と鼻の先にある。気が向けば帰って、家族で過ごしているし、それは弟も一緒だからわかっているはずだ。先週末も昼間は優と過ごして、夜は実家に帰った。それが高校を退学してから久しぶりだったことは否定できないが。しかも、その理由がホテルで邪魔をしてきた女のことを父親に言付けておくためだった。仕方がない。家族と一緒にいたい気持ちがないわけじゃない。だけど、今は ―― 。

 「今は。今このときは、優といたいんだ。俺はあいつに何も残せない。残してやれない。きっと最後には傷つける。だから、今は傍にいたい。いてやりたいんだ」
 大切な少女だから。たったひとりの、最後の彼女。目を見ただけで愛しさが溢れてくるなんて、触れ合うたびに大切にしたいなんて。そんなことを感じられる女と知り合うことができた自分を、この時間をなによりも大事にしたい。だからこそ、今自分ができるたったひとつのこと。傍にいる。それだけは失いたくない。

 「アニキ……。わかってるさ。俺たちはちゃんと、わかってる」
 力強く肯定された言葉に、ハッと顔をあげると、まっすぐに見つめてくる視線があった。その向けられてくる信頼に頷いて、いつのまにか身体に入っていた力が抜ける。苦笑して、立ち上がった。
 「ピアノ、聞いていくか?」
 驚き含んだ声が背中にかけられる。
 「珍しいな。アニキが俺のために弾いてくれるなんて」
 「俺は優と、家族のためなら、いつだってリクエスト受付中」
 笑ってそう言うと、「よく言うぜ」と苦笑が返された。それを聞き流して、再びピアノに向かう。きっと、恵まれている。好きなことを好きなようにさせてくれて、それを理解してくれる家族がいる。一緒に傍に、そのために努力してくれる恋人がいる。制限されるものは誰にだってある。年齢だったり、経済的なことだったり、些細なことでも。それが俺の場合は ――― 。

 誰とも変わりがない。だからこそ、幸せなんだと思う。

 「それでもいつかは、やってくる。そのときは、透夜」
 「…………あいつは強いよ」
 最後まで言えなかった言葉は、曲の合間に消えていく。ああ。確かに。あいつを頼む、とそう望むことは傲慢かもしれない。優が強いと言えなくても。誰よりも泣き虫なことを知っていても。

 できるだけ、この曲のように、優しい雰囲気がいつまでも、愛する恋人と家族を包み込んでくれますように ――― と、ピアノを弾いているときくらいは、素直になる感情に心を任せて、強く願った。







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