愛しい音

 別荘に行こうぜ、とカイが誘ってきた。一緒にいるために勉強を頑張ってきたんだから断るはずもなく、すぐに頷いた。カイと向かった別荘は、山の中にある。閑散としていて、例えるなら森の中で兄妹が見つけたお菓子の山小屋みたいな可愛らしい建物がひとつあるだけ。車で送ってくれた山小屋の管理人たちはここから車で数キロメートルはある場所に住んでいるから電話一本で通じるけれど、呼ばない限りは本当に二人っきりだった。
 「二日後には透夜と叔父さんも来るってさ」
 窓辺に立って、緑溢れる木々を見下ろしていると、部屋に荷物を置いたカイが階段を降りてきながら言った。視線は窓の外に向けたまま、返事をする。
 「あっ、来るんだ。カイの叔父さん」
 医師をしているカイの叔父さんは、三十路後半の口髭があるダンディな男性。優しく笑うと、茶色い目はゆったりと細まる。笑い方はそっくりで、カイが同じくらいの年齢になったら、きっとああなるんだろうと想像しそうになって、首を振った。
 「身体を休める言い訳にするってさ。酷いよな。こっちは切実だってのに」
 肩を竦めて、投げ遣りに言う言葉は呆れていて、顔を上げると窓越しにカイの目はゆったりと細まっていた。仕方ないなという雰囲気には、愛情がある。カイにとって、叔父さんは尊敬する人だそう。
 甘えるように、後ろから抱きついてきて、カイは顎を肩にのせて、同じように視線を外に向けていた。
 「散歩にでも行くか?」
 「うん。明日ゆっくりね。今日はもう休もうよ」
 それってさ。
 窓に映るカイの顔がいやらしいものになる。ぺしっ、と腰に回されている手をはたいてやった。行動とは裏腹ににやりと笑う。
 「そう。誘ってるの」
 「へー。明日雨でも降るんじゃないの?」
 「一週間は晴れ、晴れ、晴れって、天気予報は言ってたよ」
 笑って言う。
 窓に映る風景は、きらきらと晴天を象徴するように煌いている。私たちの時間はこれからここで始まる。 ―― まだ、始まったばかり。だから。

 天気予報は嘘つきだ。

 窓を叩きつける雨の音に気づいて、泣きたくなった。雨の音はキライ。雨の匂いもキライ。キライなものは気分を重くする。だからキライ。好きなものと嫌いなものがはっきりしているのはおまえらしいよと、雨が好きでもキライでもないカイが言った。

 昨日は結局、二人で一日ごろごろしていた。真新しいシーツに寝転がって。カイは持ってきた小説を読んだり、私を抱いたり。私は楽譜に目を通したり、カイのほっそりとした身体にぴったり抱きついてまどろみながら。気がついたら雨が降っていて、枕元に置いていた目覚まし時計は朝の五時を示していた。

 「 ――― カイ」

 雨が降っちゃったね。

 拗ねるように言えば、しょうがないだろうと苦笑して宥める声が聞こえてくると思った。いつものように。

 「カイ……?」

 ハッと身体を起こして、隣に横たわっているカイの顔を見た。呼吸が。

 口元に耳を寄せる。呼吸が……。

 「っ、カイっ、カイ!」
 こういうときは揺さぶっちゃダメ。自分に言い聞かせて、肩に触れようと伸ばした手をぎゅっと握った。
 「……ばか、起こす、は、キス、」
 ぎゅっと握った手を掴まれた。小さく息を呑んで、溢れそうになる涙をぐっと堪える。掴まれた手を更に握り返して、冷えている手を温める。はっ、と乱暴に息を吐き出すカイの姿に心臓が凍り付いてしまいそうだった。

 「カイ、手を放してっ。誰か呼んでくるから!」
 「……っ、あれで……いいっ」

 懇願しても逆に更にぐっと強く手を握られて、訴えかけてきた。あれ、とその言葉に泣きそうになって、わかったことを伝えるために一度頷いてみせると、ゆっくり手の力が抜かれていった。一気に不安が襲ってくる。カイが手を握っていたのは、私を引き止めるためじゃなくて、襲ってくる不安に二人で溺れないため。きっと。焦る思考の中でそんな現実逃避をしながら、心を残して立ち上がった。
 まだ少し離れたソファの上に置きっ放しだった鞄のチャックを乱暴に引いて中身をぶちまける。底からかさりと落ちてきた白い袋を開けて探り、適当に何個か手にとって、戻る前にテーブルに置いてあった飲みかけのペットボトルを持った。

 「これ、飲んで」
 いくつかを自分の口の中に放り込んで、ペットボトルから水を含む。唇を重ねて、一気にカイの口の中に流し込んだ。
 水も、唾液も。体温も。そうして、この身体に流れる赤い血も。どくどくとうるさく音を立てる心臓も。すべてがこの唇からカイに流れ込んでしまえばいいと思った。それができないなら、溶け合えばいい。水の中で胎児に戻ったみたいにゆらゆら、とすべてが水と一体化するかのように。カイとひとつになれるなら、このまま。

 「 ――― っ、もう、大丈夫だから」
 想いを拒むように、カイがゆっくりと肩を押し返してきた。顔を少しだけ離して、その目を覗き込む。

 「ほんとうに?」
 「ああ。あとはちょっと休ませてくれれば、もう一度お前を抱けるさ」
 「ばか!」

 泣きそうになる感情を誤魔化すために、頬を膨らませて笑った。カイの手が伸びてくる。頬をつままれた。まだ体温の失ったままの手が冷たくて ―― 寂しくて。悲しかった。それ以上に、溢れてくる愛しさに、摺り寄せる。優しく笑って、カイの手は髪に移動してそのまま、頭を胸に押し付けられた。

 「お前もまだ一緒に寝てろよ」
 身体越しに、カイの甘くて、優しい声が伝わってくる。他人を拒絶するときのカイの声は一声聞いただけで心が凍り付いてしまうくらい温度がないものなのに、受け入れるときのそれは冬の日の毛布のように。春の日差しのようにふわふわと包み込んでくれる。

 「しょうがないな」
 そう言って、目を閉じる。

 どくん、どくん。

 雨の音はキライ。だけど、それを覆い尽くしてくれる、カイの生きている音は大好きだと、その想いのすべてが触れている場所からあますことなく伝わってくれればいいのに、と悲しい予感に願わずにはいられなかった。







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