寂しい現実

 カイ。時間だ。

 腕時計を見ながら脈を測っていた叔父がやがて、罪人の審判を下すような神妙な顔つきで言った。ベッドに横たわったまま見上げていると、それがなんだか可笑しくて笑いそうになる。

 「なんて顔をしてるんだ。わかってたことだろ」
 ――― わかってたことだ。

 口にして、心の中でもう一度繰り返す。言葉にするよりそれは、胸を締め付けた。納得して言った言葉なのに、叔父は自分のことみたいに苦しげに眉を顰め、息を詰めて腰掛けていたベッドの脇から立ち上がって窓際に歩んでいった。向けられた背中は、柔らかいクリーム色のセーターを着ているにも関わらず、ひどく寂しげに見えた。

 「……カイ」
 「謝るなよ。情けないなぁ。俺がピアノでも弾いて、慰めてやろうか」

 からかうように叔父の言葉を遮って言うと、背中が小さく揺れた。返事の声もなくて、やがて部屋は沈黙が訪れる。叔父の背中を見ていた頭を動かして、天井に視線を向ける。青色に塗られた天井は、この別荘を作るときに優がごねた色だった。俺は木を貼った感じがいいといい、透夜は男だったら黒か灰色に決まってるじゃんと、センスの欠片もない色を言い張った。結局、優の言った通りになったのは、俺が優に甘いからだろう。惚れた弱みだ。
 青色は、すべての感情を溶け合わせるような気がした。悲しみも。苦しみも。喜びも。これから感じるだろうすべての感情を、奪うのではなくひとつに溶け合わしてしまう。

 「…………どうして、お前はそんなに強いんだ」
 叔父の言葉に現実へと引き戻された。沈黙を破って零された言葉は、部屋の中に寂しく広がっていく。
 「俺が弱音を吐いたら、優が引き摺るだろ。叔父さん、いい男はな」
 「引き際もかっこよく決めるんだ、か」
 幼い頃からそれだけは守れよと格言のように叔父が言っていた言葉。まだ五歳にも満たない甥になに言ってんだ、とよく親父とともに呆れた。

 「おまえたちは、本当に ―― 」
 大きな重荷を降ろすみたいに、溜息が零れ落ちる音を聞いた。

 天井から視線を叔父のもとに動かすと、口髭を撫でながら困ったように微笑んでいる顔があった。最初の、今にも飛び降りるんじゃないかというような絶望に染まった表情よりはいい。

 「愛し合ってるんだよ。だから俺はギリギリまで優の傍にいたいと思ったし、あいつはわかってて、俺を受け入れてくれたんだ」
 誰に憚ることなく言える言葉。

 (愛してる、愛してる、愛してる ――― 。)

 何度も。何度も繰り返す。
 もったいない、とか真実味が薄れるとか時々笑って優が言っていた。だけど、何度言っても足りない。優と在るはずの未来に、優にもっと告げられるはずの未来がどこにもないのだから。

 「一応さ。家族には頼んだんだけど、叔父さんにも言っておく」
 眉だけ器用に上げて、叔父はなんだと促した。
 「優はきっと、泣かない。だからそれを理解してやって欲しい」

 時間の許される限り、優の傍にいた。だから、優は泣かない。
 責めないでやってほしい、というのはきっともうすでに叔父も含めて、家族はわかってくれているからだ。それでも言わずにはいられない気持ちがあった。

 叔父は頷くかわりにふっと笑った。

 有難うと言い掛けて、はっと耳を澄ませる。カイ、と訝る叔父に慌てて言った。
 「おじさん、ちょっい窓開けて」
 そう言うと、叔父も気づいたのか窓の鍵を外す。持ち上げられた、窓の隙間から少しづつ、音が ―― 優しい旋律が入り込んできた。
 「優の歌声、か」
 叔父さんは呟いて、聞き惚れるように目を閉じた。俺も頷いて、目を閉じる。瞼の裏に、優の姿が思い浮かんでくる。笑顔も。泣き声も。拗ねた顔も。抱いたときの色っぽい顔も。ぐるぐると鮮明な表情は、すべて、優しい歌声にとけていく。

 「 ――― 俺は幸せだったよ。そしてきっと。これからも幸せなんだ」
 出会えたから知ることのできた幸せを、大切にできた。できたと思う。それは優の歌声からも ―― 想いからも自信を持って言える。

 たとえ、この現実が誰かにとって寂しいものだったとしても、俺が幸せだった事実は色褪せることも、消え去ることもないだろう。







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