私とカイが知ったのは、診察室の隙間から聞こえてきたおばさんたちのすすり泣く声が心配で二人で立ち聞きしていたからだった。あのとき、カイは何も言わずにただ強く私の手を握っていた。手が潰れちゃうんじゃないかってくらい、ぐっと強く。その強さがカイの胸の痛みを訴えてきているみたいだった。
百万人に一人だと言われた。百万人に一人というのは、どれくらいか想像もできなかった。だって、どんなに珍しいといわれても、その病気にかかったのはカイだから。私も泣いたし、カイも泣いた。泣いて泣いて泣いて、二人とも笑えないくらい瞼が腫れて、目が真っ赤になった。その後で、カイは笑った。
『……だいじょうぶだよ』
何が、と聞き返したかったけど、なんとなくわかったので、ただ、うんと頷いた。だいじょうぶだよ。自分に言い聞かせる。だいじょうぶだよ。
まだ、十歳だった。カイは二つ上。二年の差は、私がなんとなくしかわからなかった何かを理解させるには十分だったのかもしれない。
数年のうちに、脳が活動を停止して、身心機能は少しづつ、生きることをやめてしまう。原因不明 ―― 。
そのためにカイの叔父さんはそれまでの仕事を辞めて、カイの病気の研究にすべてを費やすようになったし、父親はカイのどんな我侭も聞くし、母親は優しくカイを見守ることにした。弟の透夜は一層、ブラコンになった。そうして、私はいつだってカイの傍にいることを望んだ。カイが許す限り。カイの時間が続く限り。
カイはその時間の中で、ピアノを弾くようになった。いつだったか、安定剤だとポツリと零したことがある。弾いていると、それ以外のことを考えなくていいからと。押し寄せてくる不安を一時でも忘れることができると、寂しく笑った。それが理由でも、鍵盤の上で指は、いつか止まってしまうものだと思えないほどに滑らかで繊細な動きをしていた。そのピアノでカイは大きな大会の優勝を総なめにした。何十年に一人の天才だと噂されるようになって、趣味で弾くだけに切り替わった。特殊なのはひとつだけでいい、と苦笑いを零して。本当は、時々発作が出て手が動かなくなるからだったけど、私はその手を握って、言った。
『私が歌うときだけ弾いてくれればいいよ』
独占欲の塊のような言葉。だけど、カイはゆったりと目を細めて、微笑んで、そうだなと同意してくれた。それから、カイの不安なとき。眠れないときの安定剤は私になった。
その頃辺りに二人の間で一年約束が流行った。一年ずつお互いの言うことを聞くこと。最初はカイ。
『俺の傍にいてほしい』
次は私。
『私の傍にいて』
次はカイ。そして、私。
『後悔しないと誓えるなら、俺に抱かれろ』
『いつだって、欲しいときは抱いてね』
また、カイ。
『俺の我侭は何も言わずに従えよ』
その約束は、期限に届く間もなく、ちゅうぶらりにぶらさがったまま。
今度は私 ―― のはずだったのに。
思い出がゆっくりと、引き戻されていく波の音に浮かんでくる。
目を開けると、眩しいくらいの太陽が光を海に注いで煌きを散らしていた。
夏は終わり、秋がきて冬が巡り、春が訪れる。そうして、また夏が来て ――― 。
白いシャツには新学校の刺繍が胸ポケットにあって、スカートは黄土色のチェック。センスがいいとは言えないけど、憧れていた学校。ようやくこの制服を着て、この海に足を向けることができた。
「そういえば、同じ制服で制服デートしたいって言ってたっけ」
ずっと一緒にいたから思い出すことはたくさんあるのに、そんなどうでもいいことばかり浮かんでしまう。
空は雲ひとつなく、澄みきった青一色で、海も、深い青色一色でどこまでも続いていて。だからかもしれない。青はすべての感情を溶け合わせる。悲しみも、切なさも ――― 寂しさも。
だから思い出すことはそんな、どうでもいいことばかり。
どうでもいいことばかりだったけど、それはカイが私の傍に存在していた証だった。
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