静かな空気が好き。まるで、書かれた時代の空気が流れているみたいに、懐かしい気配と、少しだけ静かであることに対してもってしまう緊張感に支配されている時間がなによりも、居心地がいい。ページをめくる度に、ぱらりと鳴る音が私を文学に対して真摯な勤勉少女、そんなふうに酔わせてしまう。そんなことを思いながら、手にしていた現代恋愛小説を棚に戻した。この作家さんは私には合わない気がして、次の本を探すことに決める。
そういえば、古典の教師が勧めていた本があった。口語体が主流の少し変わったお話で、苦手なやつもいるかもな。嵌れば面白いぞ、と言っていた。作家の名前を思い出して、探してみる。あっ、と思って、困った。
変わったお話はあまり人気がないのか、本棚のいちばんうえ。それも隅っこに置いてある。気づくことができたのは、その本のカバーが赤色と目立って、2冊並べてあったから。手を伸ばしても届かないなぁと、そう思いながらも一応手を伸ばしてみる。途端に、影が覆い被さってきた。振り向く間もなく、スッ、と本を取られてしまう。
「ほら。これだろ。おまえが欲しかったの」
そう言ってコツン、と頭を本で叩かれた。その声にぎくりと身体が強張る。だけど唾を飲み込んで、いったんぐっと手の平を握ってからできるだけ自然であるようにゆっくりと振り向いた。
「うん。ありがとう」
短く切った黒い髪。丸い黒い目。鼻筋はすっと通っていて、唇は冬のせいか乾いていた。肌は夏の名残をいまだ残していて、浅黒い。海の家でバイトをしているからだ、と焼けた肌を誇らしげに見せて言っていた。クラスメイトだけじゃない。この学校の誰よりも、カッコイイと評判で、女性からは絶大の人気があったが、彼は常に誰であってもそっけない態度だった。
「めずらしいね。橘くんが図書室に来るなんて」
今度は軽く握られた拳で、こつんと小さく小突かれる。
「他には誰もいなかったぜ。いつものように透夜って呼べよ」
誰かがいても。そう呼んでいいんだ、と言われていたけれど、私にはそんな勇気はなかった。だから、そうだね、と私が答えても、きっとこれからも変わらずに「橘くん」と呼ぶことがわかっていて、彼は溜息をつくとそれ以上は追求しなかった。
それより、と急に困った顔になる。
「悪いとは思うんだけど、明後日、教会に母さんの手伝い行ってくれないか?」
意外な言葉に、え、と声が零れる。はぁ、ともう一度重く息を吐いて、彼は棚の反対側にある窓枠に寄りかかった。
「母さんボランティアしてるだろう。明後日その集まりあるんだけど人手が足りないんだってさ。俺は用事あって手伝えねえし。無理にとは言わない。一応、声だけかけといてほしいって頼まれたから」
その投げ遣りな言い方は、心に重みを増やさない。どっちでもいい、と言われるのはラクだ。簡単にイヤだと言えるし、そう言っても罪悪感はもたなくてすむから。だって、どっちでもいいんだし。
それがわかっていて、投げ遣りな言い方をする彼を一瞬じっと、見て、それから「いいよ」と答えた。彼は驚いたように丸い目を大きく広げる。断ると思っていたのかもしれない。
「いいのか?」
もう一度、うなずく。うなずいて、「いいよ」と繰り返すとようやく納得したように、ありがとうと笑った。
用事が済んで、彼が背中を見せる前に、私は本棚に向き直って取ってくれた本をぱらぱらとめくり始める。窓際から小さな溜息が聞こえたけれどもう振り向かなかった。
「じゃあ、またな」
そう言って、彼は離れていった。足音が遠ざかっていく。
正面ならだいじょうぶ。だけど、後ろ姿は、まだ。
黄土色のブレザーの下には白いシャツ。ネクタイは年中着用。ブレザーと同じ色のズボン。センスがいいとはとても言えないけれど、目につく。覚えてしまった姿が忘れられなくなるほどには。
ぱらり、と本を捲る。
古典の先生に面白いといわれた本は、苦手じゃない気がして、借りることに決めた。
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