名残りはまだ、

 教会でおばさんの手伝いをして、後片付けが終わってから、牧師さんと話をするから少しの間、待っていてねと言われてパイプオルガンの前に座った。
 暇を持て余して、図書室から借りて読んでいた本の存在を思い出し、バックから取り出す。読みかけのところを開いて、文字を追う。誰もいないという安心感と、神聖な空気の流れ、気がつかないうちに感じていた懐かしい気配に、いつのまにか口ずさんでいた。そのことに、外の空気が流れ込んでくるまで気づかなかった。近づいてくる気配に、ハッと顔を上げる。数歩の距離に、ひとりの男性が立っていた。
 教会のオレンジ色の明りのせいか、或いは染めているのかわからなかったけれど、髪が薄い金色に見えた。真っ黒のサングラス。顎のところまでたっぷりと巻きつけている茶色のマフラー。ベージュに染まる長いコート。怪しい人なのに、怖いとは思えなかった。教会のなかだったからかもしれない。
 教会を訪れてくる人は、なにかしらきっと祈りを捧げ、救いを求め、神様と話をしたいひと。だから、怖いと思うことはない、はず。だけど、恥ずかしくなってしまった。慌てて本を閉じる。手に持って、扉に向かって駆け出した。その途中、すれ違う寸前で腕を掴まれた。ばさり、と音が聞こえたけれど、気にするよりも頭が真っ白になっていた。

 「待って、その歌ッ!」
 「ごめんなさいっ!」

 即座に掴まれた腕を振り払って、駆け出す。扉を開けて、振り返らずにただ、ひたすら走った。走って、走って、走りながら思う。

 (……私、うたってた?)
 その事実に愕然となる。
 あの神聖な空気のせいかもしれない。懐かしい気配が、ひっそりと気を緩めていたのかもしれない。胸がぎゅっと痛んだ。

 教会の名残も、見えなくなって、イルミネーションがちかちかと煌く中を歩き出す。街の中は、近づいてくる冬の一大イベントに向けて、賑やかに飾り付けられている。商店街を流れている曲も、楽しいクリスマスソング。はぁ、と吐き出した息が白く、せつなくあがっていく。視線で追いかけていくと、空には微かに星が見えた。

 (私、歌ってたんだ……。)
 その事実がやけに、寂しく ―― だけど嬉しい気持ちもわきあがってくる。それが無意識だったとしても。あの空気の中だったからだとしても。

 「私は、ちゃんと歌えるみたい」
 だから、大丈夫とそう言葉にするには、少し自信が無いけれど。

 ふと、ピピッ、と発信音が聞こえてきた。ハッ、と片手に持っていた鞄の中を探る。折りたたみ式の携帯電話を見つけて、そういえばと本の存在を思い出して更になかを探す。その間も発信音は流れ出していて、とりあえず電話に出ることにした。画面の文字は「橘くん」と点滅している。高校に入学して買ってあげたと私の母親から聞いた彼に取り上げられて、番号とアドレスを登録させられた。家族の登録以外はそれだけが入ってる。おばさんが教会にいなかったのを心配して彼に連絡したのかもしれない。

 「はい。 ―― あっ、」
 その瞬間、本をあの教会に落としてきたんだと気づいた。
 「ううん。なんでもない。教会に戻りますって、おばさんに伝えてくれる? わかった。あと三十分ね。大丈夫、ゆっくり戻るから」
 まだ時間がかかるって言ってたぜ、という言葉に少しだけほっとして、じゃあねと電源を落とした。
 どうか、あの人はもういませんように ―― 。
 そう願いながら、教会へと踵を返した。

 まさか、本までなくなっているとは思いもしないで。

 次の日、校門前に佇んでいるとは想像もしないで。

 ちょっと待って、と声をかけられると同時に後ろから肩をつかまれた。え、と驚いて振り向くと、ひとりの男性が見慣れた姿で立っていた。真っ黒いサングラス。マフラー、コート。今日は日差しを受けているが、やっぱりさらさらと髪は金色に染まっていた。

 「あっ、昨夜の……」
 「よかった、覚えててくれたんだね」
 そりゃあ、そんな変な格好のひとを忘れられるはずない。それが昨夜のことならなおさら。明らかに不審がる視線をものともせず、彼は明るく響く声で言った。
 「話あるんだけど、いいかな。ちょっと、そこの車で」
 「いまどき、そんな台詞で引っ掛かる女子高生いませんよ。私は忙しいので」
 肩を掴んでいる手を振り払おうとして、まあそう言わず、とぽんぽんと頭を何か硬いもので叩かれた。怪訝にそれを見ると、赤い本だった。ハイと差し出される。
 「落としものだよ」
 「……ありがとうございます」
 一応御礼を言って、本を受け取るために伸ばそうとした手はかわされた。届かない位置まで高く上げられた本に、ムッとして睨みつける。
 「拾った者には一割の御礼があるよね」
 たっぷりの余裕を持って言われた言葉に、はぁと溜息をついた。というか、溜息しか出てこない。だけど、このまま素直に車に乗るほど警戒心がないわけじゃない。悪い人には見えないけれど。
 迷う雰囲気を感じ取ったのか、彼は本を持っている手とは反対の手でコートのポケットを探って、差し出してきた。
 「じゃあ、これ。一割のお礼はこれに来てくれたら、それでいいから。約束」
 ――― 本はそのときに返すねー。モノ質、モノ質〜♪
 一方的に紙を握らせると、楽しそうにわけのわからない鼻歌を流しながら、車があるところに戻り、颯爽と乗り込んで走らせていった。

 「 ――― ヘンなひと」
 困惑しながら、渡された紙を見下ろす。確認しようとする前に、横からバッと奪われた。あ、とそれを追いかけていって、小さく息を呑んだ。
 「橘くん……」
 「うわっ。なんだよ、これ。Seezのチケット! しかもこれ関係者席じゃんっ!」
 「 ――― 好きなの?」
 うんっ、と久しぶりにこんなに無邪気に笑う彼を見たかもしれない。嬉しそうに頷かれて、その視線が期待に満ちている。チケットは二枚。それに行かないと本を返してもらえないし、一人で行くよりは心強いかもしれない。
 「一緒に行ってくれる?」
 「いいのか?」
 期待していたとはいえ、そう素直に誘われるとは思っていなかったのか、驚いて問い返してくる言葉に、頷いた。
 「いつも心配させてるお詫び」
 今だってきっと、校門前で男性とやり取りしていたことを心配して急いで駆けつけてきてくれたんだと思う。その証拠に、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。今はまだ、その優しさを素直に受け取れず、傷つけてばかりになってしまうから。せめて、と。それすらもわかってるから、と包み込んでくれる彼は笑った。
 「ばーかっ」
 その姿に、ぎゅっと胸が痛んだ。片っ端から押し込めてぎゅうぎゅう詰めにして、なお入らない荷物に無理矢理蓋をして鍵をかけたものが、隙間から這い出てくるみたいで。それでも、蓋を開けたくなくて、ぐっと手の平を握って押し込める。
 「じゃあ、土曜日に会場でね」
 はい、と一人分のチケットを渡して、彼が背中を向けるより先に踵を返した。  







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