信じられないっ!
Seezとかいうボーカルの男 ―― 教会と学校前で会った、変な男にいきなり肩に担がれて誘拐するかのようにそのまま、見慣れない場所へ連れて行かれた。散々暴れたけど、ほっそりとした体つきのどこにそんな体力があるというのか、ライブでアレだけ動き回って疲れているはずなのに、なんでもないことのように私を肩に担いだまま落すことも、放すこともしなかった。
「変態っ、セクハラっ、誘拐魔!」
バーの入り口に入ったところでようやく降ろされて、思いつくだけの文句を投げつけてやった。だけど、男はにっこりと微笑みを浮かべるだけで、馬耳東風。暖簾に腕押し。さらりと聞き流しながら、それでも腕を掴んだまま、バーの扉を開けて中に入っていく。抵抗して踵を返そうとしたけれど、その力はやっぱり強くてできなかった。
バーの中ではジャズが流れていた。しかも、レコードとかではなく、生音。音に導かれるように視線を向けると、ステージがあった。ピアノやドラム、ギターや様々な楽器があって、楽しげに弾いている姿がある。その中心で黒人男性がマイクの前に立っていた。ふと、黒人男性と視線が合う。しかし、彼が興味を持ったのは、私の腕を掴んだままでいる男だったらしく、軽く手をあげて話しかけてきた。
「ヘイっ、リク! 遅かったじゃないかっ!」
「トーマス、マイクで呼びかけてこないでよ。恥ずかしい」
困ったように笑って、彼は私の腕を掴んだまま、マイクの前に立っているトーマスと呼ばれた男性のもとへずんずんと歩いていく。その間も離してっ、と訴えてみたが、無駄だった。強引過ぎる。非難の目をまっすぐその背中に向けることしかできない自分が少し、惨めな感じがした。いつもなら、守ってくれる手があったのに、とそう心のどこかが無意識にも思ってしまったからかもしれない。
「頼みがあるんだけど、彼女に一曲だけ歌わせてくれない?」
「君が、じゃなくて。彼女?」
ステージ上にあがった男は、トーマスにお願い、と言った。その言葉にはっ、と我に返る。相手が答える前に遮った。そのどこか面白そうな目を見れば、何て答えるかなんてわかりきったことじゃない。
「どうして私がっ。歌いませんっ!」
そう拒否したところで、ようやく男が私に身体を向けた。さっきまでの飄々とした態度じゃなくて、強引に連れてきた勢いもなくて、縋るような目を向けられて、小さく息を呑んだ。
「一曲でいいんだ。頼むよ、君の歌を聞かせてほしい」
懇願するような口調に、なぜか胸の奥が痛くなって眦が熱くなる。
歌を。歌を ―― 歌って。
いやだ。怖い。怖くて堪らない。だって私は、誰かのためにはもう。
「優っ!」
絶望が押し寄せてきたとき、そう声が聞こえて強く腕を引かれた。男に握られていた手を振り払って、守るように背中に庇われる。その背中を見て、はっと息が止まった。優と呼ぶ声。広い背中。胸が熱くなる。頭が痛くなる。
「邪魔しないで欲しいんだけどなー」
苦笑気味の声が背中の向こう、男から聞こえる。
「あんた、何を勝手なことを言ってるんだよ。優は歌いたくないって言ってるだろっ」
怒鳴るような低い声に、私はその背中に伸ばそうとしていた手に気づいて、慌てて反対の手で止めた。
「透夜?」
思わず確認するように名前を呼んでいた。びくりとその背中が揺れて、焦ったように振り向くと「悪い」と苦笑して、向き直ってくれる。その優しさに泣きそうになって、大丈夫、と笑顔を作る。
「帰ろう」
そう促されて、私も頷いた。ステージの下からは私たちに興味津々な視線を投げてきていたひとたちがいたけれど、それを無視して一緒に降りる。さっきは強引に連れてこられた店の中を歩いていると、意外にも沢山の人たちがそこにはいて面白がるような ―― 好奇心に満ちた視線を向けられる。その合間をぬって、扉に向かっていると、後ろからピアノの旋律が流れてきた。はっ、と立ち止まる。
聞き慣れた音とは違う。あの繊細で優しくて、胸が痛くなる深く、流れるような音じゃない。だけど、同じ楽器が奏でるそれは。
「優。帰ろう」
再び、隣に立っていた透夜 ―― 橘くんが促すように肩を叩く。帰るべき。帰らなきゃ。ここで、私はきっと後悔する。それがわかっていても、聴こえてくるピアノの音が動かそうとする意思とは裏腹に足を踏み止まらせる。試してみたい、と思った一瞬を否定できない。
「……歌ってこいよ。俺、ここで待ってるからさ」
呆れた口調で、橘くんが言った。私が視線を向けると、しょうがないなと肩を竦める。
「下手だもん」
「いいんじゃねえ。あの下手な伴奏を言い訳にしろよ。それに、上手くても俺は複雑だし」
悪戯っぽく言われて、私はくすりと笑みを零した。そうだね、と頷く。歌わないことに頑ななわけじゃない。歌えなかったときが苦しいだけで。
振り向くと、ステージ上で男 ―― リクさんが真剣な顔でピアノの鍵盤を弾いているのが見えた。
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