ステージ上から出て行くまでの間にどういう心境の変化があったのかはわからないけれど、歌わないと拒否して帰りかけていた彼女が戻ってきてくれた。その姿を僕は信じられない気持ちで呆然と眺める。ピアノの上で動かしていた手も止まってしまっていた。
「……一曲だけ、歌わせてもらってもいいですか?」
壇上に上がってきて僕の側まで来ると、少しだけ不安げな面持ちで、だけどまっすぐ目を見てそう問いかけてきた。じっと、真っ黒な目に見つめられて、胸がどきりと高鳴る。ばくばくと、うるさいくらいに音を立てる心臓を感じながら、慌てて立ち上がった。ガタッ、と椅子が大きな音をたてたような気がした。
「も、もちろんっ、え、さっきの、封筒は……」
彼女に渡した僕が作曲した楽譜を探そうとして、再び声をかけられる。
「これ……。私、持ったままで、ここに上がってくる前に目を通してきてきたから、大丈夫です」
そう言って、差し出された右手には、封筒が握られていた。僕が彼女に出会ったその日にイメージで書き上げた曲。他の誰かじゃなく、彼女のためだけに。彼女に歌ってほしくて作った曲だった。
「音合わせとかしなくても……」
「それはあなたの腕次第じゃないですか?」
悪戯っぽく微笑んでくるその顔に、再び頬が熱を持つのを感じた。さっきの楽屋にいたときとは違う、怒ったり、笑ったり表情が変化する姿に惹きつけられてしまう。同時に俄然やる気にもなった。
「言ってくれるね。じゃあ、いつでもどうぞ」
にやりと口の端をあげて笑って、マイクの場所を指し示すと彼女も頷いて、踵を返した。マイクの前に立って事の成り行きを見守ってくれていたトーマスと目が合う。彼は楽しげに目を細めて笑うと、彼女にマイクを渡してくれた。
「いきなり割り込んですみません。一曲だけ余興に歌いまーす。苦情はすべてリクさんまでお願いしますね!」
がらりと変化した彼女の雰囲気に思わず目を瞠る。
素人だと思っていたのに、やけにステージ慣れしているように思えた。度胸が据わっている。彼女の言葉に、観客 ―― といっても、貸切だからライブのスタッフたちだったけど ―― が、口笛を吹いたりしてはやしたて始めた。
ちらり、と彼女が振り向く。僕もそれを合図に、鍵盤を弾き始める。少しづつ、騒がしかった会場が静まり返っていく。
そうして ――― 。
ぴたり、と小さな会話も消え去り、お店の中は彼女のリサイタル会場と化していった。
熱がこもる。アルコールが漂っていた室内が清浄されていくみたいに、響き渡った彼女の歌声は澄んでいて、伴奏をしながら、僕は感情が溢れ出していくのを感じた。ずっと、求めていた声。甘さも、掠れたものも、声に何も入り混じっていない、純粋な声。聞いていると、何もかもが許されてしまうような、―― 優しい声。
「ご清聴、有難うございました!」
はっ、と我に返った。
気がつくと彼女がぺこりとお辞儀をしてステージを降りていた。
「まっ、」
待って、と慌てて立ち上がって追いかけようとして、それまで静けさを保っていた室内から、割れんばかりの拍手が鳴り出した。拍手喝采で更に、感動した、とか素敵だった、とか泣いているひともいて、ステージから降りて扉に向かっていた彼女はたちまち囲まれてしまう。
「おい、彼女はなんなんだ? 新人歌手か? すごいな、俺が歌で感動したって久々だぜ」
ぐいっ、と僕も腕をつかまれて視線を向けると、トーマスが興奮した顔つきで立っていた。
「説明は後でするから、とりあえず放してっ。彼女に逃げられるっ!」
急いで振り払って、彼女を追いかけようとすると、一緒にきた奴に庇われて、店を出て行く後ろ姿を捉えた。
「待って! 優ちゃんっ!」
そう叫んだけれど、からん、と小さな鐘の音を鳴らして閉ざされた扉に遮られてしまった。
追いかけようとしたけれど、その後でスタッフたちに彼女のことで捕まって抜け出すことができなかった。だけど、彼女の学校は少なくとも、わかってる。あの歌声をしっかりと聴いて、決意が新たになった。
――― 絶対に逃がさない。
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