寂しくて、なお

 溢れ出してくる涙を止める方法がわからなかった。
 どうして、私は泣いてるんだろう。もう、涙なんて乾いたと思っていたのに。どうして、私は ―― 。

 「……っ、もう、走れなっ、い、橘くんっ、待っ…」
 肩で大きく息をして、つかまれていた手をはずす。何度か咳き込んで、そのまましゃがみこんだ。
 「まあ、ここまで来れば大丈夫だ。あのしつこいヤローも追いかけてはこれねえだろう」
 ヘイキか、と同じようにしゃがみこんで、目線を合わせてくれる橘くんは気遣うようにぽんぽんと背中を叩いてくれた。大きく息を吸い込んで、吐き出して、息を整えてから、有難うと笑顔を返した。大丈夫、と安心させるために。
 「あそこに丁度いいベンチあるから、座って待ってろよ。何か飲み物買ってくるから」
 そう言って、返事も聞かずに歩いていってしまった。そういえば、と今自分たちがいる場所がどこかの公園だと気づいた。時計を見ると二十二時を切りそうになっていて、溜息をつく。すっかり遅い時間になってしまった。
 とりあえず橘くんが言っていたベンチに座って、空を眺めた。満天の星空が煌いている。まるで今にも降ってきそう。そう思うと、胸に切ない感情がこみあげてくるような気がした。
 「紅茶でいいよな」
 不意にそう声がして、空から視線を戻す。
 二本の紅茶の缶を手にした橘くんが立っていて、彼は私を見てぎょっと大きく目を瞠った。どうしたの、と聞くよりも先に、焦ったように言う。
 「なっ、どうして泣いてるんだよっ? なにかあったのか? やっぱり、歌が ―― 」
 その言葉に、ようやく自分が泣いていることに気づいた。同時に、動揺してしまう。
 「どうしよう、歌えちゃった」
 なんで、どうして、疑問が頭の中を埋め尽くしてしまう。その事実に胸が苦しくて、苦しくて、耐え切れなくなって涙が止まらなくなる。
 「私、歌えちゃった。ダメだと思ってたのに。歌えなかったときのほうが苦しいと思ってたのに、どうしてかな……。どうしてっ、」

 ――― どうして。歌えちゃったことが、こんなにも悲しいの?

 頭の中に浮かび上がってくる面影。思い出すことが苦しくて、つらくて、その度に必死の思いで打ち消していた。姿も。顔も。囁いてくれた言葉も。だって、温もりはもう忘れてしまってる。抱き締めてくれた腕の強さも。与えられた熱も。感覚としてしか、残らないものはすべて。時間に奪われていった。なのに、形だけはどんなに忘れようとしても、思い浮かんでくる。優しかった手のひら。甘く、切ないキスをくれた唇。愛してると伝えてくれる瞳。どんなに振り払おうと思っても、身体中に刻み付けられていた。

 「今だけ」
 急に胸に抱き寄せられて、聞こえてきた声に顔をあげる。だけど、涙でぼやけた視界が橘くんの顔を認識するよりも先にぐっと頭を胸に押し付けられた。
 「今だけ、兄貴の代わりになっておまえのこと受け止めてやる。だから、抱えてるもの吐き出せよ」
 「っ、できないっ!」
 「 ―― 優」

 ( ――― 優。)

 私を呼ぶときは、いつだって、甘くなった、少し低い彼の声。口調はいつだっていい加減。やれば何でもできるくせに、何もかも適当に促していて、だけど自分でやると決めたことは最後まで完璧なほどにやり通していた。他人に甘えることが嫌いだと周囲を突き放すくせに、頼られると先回りして救うから人望はあって、だけど私には甘えたがりだった。抱き締めると離してくれなくて、所構わず恥ずかしくなる言葉を口にする。それは、時間がないからだとお互いにわかっていたけれど。私はそれでも上手に言葉にすることができなかったから、歌って、と彼の願いだけを素直に受け入れていた。どんな場所で歌おうと、彼への想いを心に込めて。

 だから、歌えないということは、想いを告げる彼がいないと自覚して胸が苦しくなることがわかってた。だけど、歌えたということは ――― ……。

 「……っ、カイっ、カイっ、」

 久しぶりに唇に乗せる名前。心の奥では何度も何度も気が狂うほどの想いを込めて呼んでいる名前。口にできなかった。この想いはせき止めるしか、ないから。だけど、今だけ ―― 。行き場のないまま、ただ募り続ける想いを吐き出したかった。あなたに会いたい、と弱音を言いたかった。会いたくてたまらない。声が聞きたい。抱き締めたい。その叫びは、言葉にはできないけど、でも。今だけ。久しぶりに言葉にした名前が、より深く悲しみに心を浸らせるだけだとしても。







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