姿を見せたら、彼女は逃げると思った。
あのバーから出て行ったときの彼女の小さな背中はすべてを拒絶していたように見えたから。もう二度と会いたくないと言葉ではなく、雰囲気全体でそう訴えていたように感じていた。それなのに、彼女は校門の前で待っていた僕の正面に立って、すっきりとした顔つきで見据えてきていた。すっきりというのは違う。彼女の瞼は少し腫れあがり目は充血している。昨日、あれから泣いたとわかるその姿に、胸が苦しくなった。僕はその理由を知らない。どうして、歌を唄うことを拒否していたのか。急に唄う気になったのか。歌って、泣いたのか。彼女のことを何も知らない。そう思い知らされて、用意していたはずの言葉がすべて喉に詰まってしまった。
ただ、立ち尽くす僕に、彼女は少しの感情も見せず、やっぱりすっきりしたように、「何か用ですか?」と訊いてきた。そんな彼女に僕はらしくもなく戸惑う。用意していた言葉は、彼女には届かないとその瞬間、思い知らされた。たとえば、歌手にならないかとか。有名になりたくないかとか。きっと、上滑りしてしまう。僕が何かを喋るのを彼女はただ、目を見据えて待っていた。
「……昨日は、有難う」
歌ってくれて、と。無意識にそんな言葉が口をついてでていた。
「どういたしまして」
返ってきた言葉はそっけなかった。だけど、その声に楽しげなものが混じったことに気づいて、僕は思わずまじまじと見返してしまった。今まで、あまりいい感情を見せてくれなかったのに、ほんの少し微笑んでいるのを見つけた。その微笑みがゆっくりと胸に落ちてくる。
僕の驚きを勘違いしたのか、彼女は頬を染めて、視線を逸らした。
「私だって、お礼を言われれば素直に返せることくらいできます」
いつも怒ってばかりじゃないですよ、と言外に伝えてくる彼女の姿に思わず吹きだしそうになった。慌てて堪えて、代わりに素直に謝った。
「うん、ゴメン。僕が強引過ぎたんだ。わかってる。だけど、僕には運命だったんだ。君に歌ってほしいと思った。僕の作った歌を」
「その話しは ―― 」
悲しげな顔をされれば、その言葉が拒否しているものだとわかる。だから、最後まで言われる前に、うなずいた。
「うん。この話は置いておこう」
「 ――― え?」
「とりあえず、ドライブでもしない? 家に送るまででもいいからさ。それともどこか行きたいところ、ある?」
口調はあくまで気軽さを装っていたけれど、内心は必死だった。もっと彼女と一緒にいたいと思ったし、なによりも彼女を知りたかった。その想いが伝わったかのように、思案する顔つきで俯いていた彼女は顔をあげて、「じゃあ、海に」と短く告げてくれた。
( ―― うみ。)
頭の中でその言葉を繰り返して、ようやく、海だと理解する。いちもにもなく、僕は頷いて彼女の気が変わらないうちに車を置いてきた場所まで誘って歩き出した。
車の中では、洋楽が流れ出していた。音楽はジャンルを問わずに聴いていることが好きで、CDチェンジャーには、五枚は入れることができる。たいていは、入れっ放しで一月に一度替えるだけ。それまではずっと、流しっ放しだった。
助手席にちらり、と視線を投げると、彼女はシートベルトをつけて、座席に背中を預けるわけでもなく、姿勢正しくとばかりに座って前を向いていた。膝に手を置いて。安心させることが出来ない自分が、少し悔しかった。それを誤魔化すように、前方に気をつけながら着ているジャケットのポケットを探る。
「優ちゃん、ちょっと、手を出して」
「手を? こうですか?」
怪訝な顔つきをしながらも右手を広げたそのうえに、水色の紙に包まれた飴玉を「あげるよ。おススメ」と言ってころりと転がした。
「有難うございます。リクさんのぶんは?」
暫く飴玉を見ていた彼女は、くすりと小さく笑って、そう聞いてきた。僕はポケットに残していた最後の一つを取り出して見せる。ちゃんとあるよ、と答えると、彼女は飴玉をひとつ手にとって、包み紙を開けた。
「 ――― 薄荷飴」
紙を広げた瞬間に匂いがしたんだろう。彼女は懐かしげに目を細め、ゆっくりとそれを口の中に入れた。
「好きなんだ」
そう呟くと、彼女が驚いたように僕を見た。その視線に、あっ、と気づいて慌てて付け加える。
「薄荷飴」
「あっ、え、そ、そうなんですか……」
恥ずかしそうに頬を赤らめる姿は可愛らしく映る。誤解されたままでもよかったような気がした。
「な、なつかしい味ですよね」
誤魔化すように言って、再び視線を前に向けてしまった。ミラーでちらりと見て、少しがっかりしてしまう。まあ、運転中は彼女の目もまともに見れないから仕方ない。殊更、運転には気をつけるように言われているから、余所見を長くしていることはできなかった。
「喉がすっきりするし、後味も引かないからね。口寂しいときによく食べるんだ。優ちゃんは? そういう好きな食べ物ある?」
「…………私は」
思案するような声が聞こえてくる。むしろ、言うことを躊躇っているような、そんな口ぶりに戸惑う。ただ、好きな食べ物を聞きたかっただけなのに。疑問に思いながら、丁度タイミングよく信号が赤になって車を止める。隣を見て、驚いた。何かを思い出すように微笑んで、それからふと彼女が口を開く。
「私はミントが好きです」
薄荷と同じですね、と言う彼女の顔は、確かに微笑んではいるけれど、寂しげな影が隠れているような気がした。今にも、泣き出したいのを我慢しているみたいで、それは強く胸に残った。
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