失っていく、怖さ

 車から降りて、堤防まで上がった。

 眼下に広がる海の穏やかさは、あの頃と何も変わらない。それなのにまったく違う海を見に来ているように思えた。冷たい空気が肺に入り込んで、胸の中で燻っている熱を消していくような気がする。代わりに、寂しさと。どうしようもない、痛みに襲われる。

 「冬の海ってさ」
 ふと、隣に立っているリクさんが口を開いた。
 「いろんな音が悲しげに聞こえる気がするよ」
 それは意外な言葉だったけど、わかるような気もした。
 寄せては引いていく波の音。誰かが砂浜を歩く音。海を通ってくる風の音。海と空の狭間を飛び回る鳥の鳴き声。羽ばたく音。すべてが、悲しさを含んでいるように聞こえる。瞼を下ろして、真っ暗闇の中で聞くほどに、その悲しさは胸にゆっくりと落ちてくる。この世界に潜んでいる厳しさ、或いはその厳しさに耐えるための強さと、けれど、その中にある深い悲しみを伝えるように。
 「この悲しい音が好きだからかな。僕は冬に見る海が好きなんだ」
 リクさんの言葉を聞きながら、私はやっぱり思い出していた。
 彼は、「だから、夏の海が好きだ」と笑っていたことを。夏の海の、ひとの騒がしさ。熱のじりじりと焼ける音。押し寄せてくるような勢いのある波の音。餌にありつける鳥たちの歓喜の声。すべてが楽しさを纏っているような気がする。活気に溢れてる。生きようとしている。生きている。そういう感じが好きだから、と。
 正反対の季節にくれば、面影は静かにしていると思っていたのに。鍵をかけた箱の奥底で眠っていてくれると思っていたのに。やっぱり、溢れてくる。溢れてきて、喉を遡って唇から、瞳から、零れそうになる。胸の中が、それだけでいっぱいになっていく。
 「…………優ちゃん?」
 不思議そうに問いかけてくるリクさんに顔を向けて、まっすぐ見る。

 「ごめんなさい」
 いきなりそう謝ると、リクさんは驚いたように目を見開いた。
 昨夜ずっと考えていた。どうして、歌ったあとで、あんなにも悲しくなって、泣いてしまったのか。この海を見て、ようやくわかったような気がした。
 「私は、大切な人のために歌いたいんです。ううん、歌いたかったんです。他の誰かじゃダメ。他の誰かのためになんて、歌えない。だから、ごめんなさい」
 歌って欲しい、と求められたことは正直に言うと嬉しかった。嬉しかったのかもしれない。だけど、歌ってわかった。どんなに歌えたとしても。この歌は、響かない。一番聞いて欲しいひとの場所まで届いてくれない。虚しくなるだけ。寂しくなるだけ。 ―― ただ、悲しくなるだけで、歌えることを心から嬉しいと思えなくなっていた。

 「勿体無いよ」
 「えっ?」
 戸惑う私の肩をつかんで、真剣な目でリクさんが言う。
 「優ちゃんは、まだ高校生で、若いんだよ? たったひとりに縛られる必要ないと思う。もう少し視野を広げて ――― っ」

 気がついたときには、手の平を振りかざしてた。パンッ、と乾いた音が響く。

 「私はっ」
 身体中がかっ、と怒りで熱くなった。頬を打たれて呆然としているリクさんの姿が目に入った。
 誰にもわからないと自惚れてるわけじゃない。だけど、彼のことを知らないひとにはわからない。私はたったひとりである彼に惹かれたし、それは縛られてるわけじゃなくて、今もまだ、変わらずに好きだってこと。
 ――― なにひとつ、変わらずに好きだってこと。
 そう思った途端に、怒りが ―― 想いが爆発したように叫んでいた。

 「あなたには関係ないっ!」

 気がついたら、走り出していた。

 「優ちゃんっ!」
 呼び止める声も耳に入らない。
 堤防を降りて、海に向かった。波打ち際まで駆け寄って、遠く、水平線を見眇める。潮風がより冷たさを含んで、吹きつけてきた。
 「どうして」
 小さな呟きが無意識に零れ落ちていた。その声の寂しい音に、泣きたくなる。どうして。先の言葉が出てこない。私は何を言いたいんだろう。何を。
 優ちゃん、と困惑した声が背中にかけられた。振り向かずにいると、ゆっくりと隣に立たれた。風が少しだけ遮られるような気がして、胸が痛くなる。その途端、すんなりとさっき呟いた言葉の先を見つけた。見つけてしまった。

 ( ―― どうして。私の名前を呼ぶのが。隣に立つ人が。)

 彼じゃないんだろう。
 同じ距離で。優しい声で。私の傍にいるのは ―― 。

 突きつけられた。
 彼を失った、現実を。失っていく、未来を。
 忘れたくなんかないのに。忘れられないはずなのに。形のないものは少しづつ ―― 。残されているのは面影。

 傍にいるって言ったのに。

 引き返す波の音が、すべてを奪っていってしまう。そう感じてしまう自分が嫌で、ぎゅっと目をつぶった。







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