わっかんないんだよねー。
Seezのアルバム構成をしていた紙をくしゃくしゃに丸めて、机に突っ伏した。頭の中に浮かぶのは、優ちゃんと海に行ったときのこと。
(怒らせるつもりじゃなったんだけどなー。)
そう思って、ふと振り返る。そうだろうか。あれは怒っていたんだろうか。どちらかというと、あの顔は、悲しんでいたような気がする。泣きたくて堪らないのに。泣いてしまいたいのに、我慢している。そんな顔つきだった。
少し、―― 違う。思いっきり悔しかった。優ちゃんにあんな顔をさせる男が正直言って、羨ましくて妬ましいと感じてしまった。優ちゃんの歌ひとつ、そいつに掛かっているんだから。
「痛かったなぁ……」
叩かれた頬に手を当てる。
女性に叩かれるなんてなかったのに。初めての痛みは、悲しみを伴っていた。胸を突かれた。
「どんな男なんだよ……」
「俺のアニキだよ」
唐突に聞こえてきた声にばっと顔をあげる。
「げっ」
思わずそう口に出していた。
ライブの日に優ちゃんと一緒に来ていた男がいた。ドアに寄りかかって、呆れた顔つきで。腕を組んで、不満そうに。すぐに表向きの顔を装って、にっこりと笑う。
「ここは、関係者以外立ち入り禁止のはずなんだけどね」
「うわー。二重人格ってやつ?」
肩を竦める男に、扉を閉めて、と目線だけで促す。それを察したのか、彼は部屋の中に足を踏み入れると素直に扉を閉めた。最初は追い返そうかとも思ったけれど、『俺のアニキ』という言葉が引っ掛かっていたし、優ちゃんのことを知るには、僕には彼しかいない。
「で、どうやってここに?」
「事務所の前にいたら、かなたさんが入れてくれた。マネージャーと用事があるから先にあんたんところに行っておいてくれって」
へぇ、と返事は自然と語尾が上がってしまう。
彼方が「かなたさん」で、僕が「あんた」とかそんなことはどうでもいい。彼方のやつ、面白がってるなー。パートナーのやたら首を突っ込みたがる性格は長年の付き合いでお見通し。というよりも、見通すまでもなくあいつは、堂々と面白がっていると公言して憚らない性格をしているけれど。
「……まあ、いいや。それより、さっきの」
「優のことだろ、あんたが唸っていた原因さ」
肩を竦めて、向かい側のソファに座った。
「どういう関係?」
制服姿の彼の襟元を見ればわかる。校章と学年、クラスの小さいバッジがついているから、優ちゃんと違うクラス。友達というには親しい雰囲気がある気がするし、恋人というには、距離があるように思えた。その答えが、彼の「アニキ」なんだろうか。
「優は俺のアニキの恋人」
「だった、じゃないわけ? 優ちゃんの様子を見てたら、今も続いているようには思えないな。彼女が忘れていないにしても」
意味ありげな言い方に対して、先に釘を打っておく。それくらいわかる。今もまだ付き合っているなら、はっきりそう言っただろうし、ライブにだってその弟を連れてくるより、彼氏を連れてくるに決まってるじゃないか。そうじゃなかったら、女友達にするはず。それくらいわからないほど愚鈍じゃないつもりだった。
僕の言葉に彼は黙り込む。何かを考え込んでいるかのような真剣な空気に、僕は何も言わず、彼が口を開くのを待った。
「…………俺はさ」
やがて彼が、言葉を探すようにゆっくりと紡いでいく。
「間違ってるかもしれないけど、過去にすることがあいつのためだと思ってる。あいつは、時間を止めたままでいようとしてる。何も見ないまま、殻に閉じこもって。だけど、この前。あんたのピアノで歌って、歌った後、あいつ泣いたんだ。初めてアニキの名前を口にして、泣いたんだ」
「初めて、って?」
そう聞き返すと、寂しげな微笑みを浮かべて、彼は言った。
「 ―― アニキが亡くなって、初めて」
がつん、と頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
『勿体無いよ』
自分の声が否応なく響いてくる。
『優ちゃんは、まだ高校生で、若いんだよ? たったひとりに縛られる必要ないと思う。もう少し視野を広げて ――― っ』
自分で言った言葉が鋭く胸に突き刺さる。
頬を叩いたときの彼女のひどく悲しげだった顔が思い浮かぶ。自分に対する怒りで、全身が震えてくる。吐き気と眩暈が襲ってきた。知らなかったとはいえ、傷つけたことだけは確かで、後悔に苛まれる。
「優を歌わせてやってほしいんだ」
動揺している僕に構わず、聞こえてきた彼の言葉に、小さく息を呑んだ。自嘲して、苦々しく呟く。
「この前、はっきり本人に断られたよ」
「それで諦めるのか?」
じっと見据えてくる目に、何も答えられなかった。黙ってしまうと、彼は持っていた鞄を開いて、封筒を取り出した。それを机のうえに置いて、立ち上がる。
「気持ちが中途半端だっていうのなら、それを捨てて、もう二度と優に近づくな」
さっきまでのどこか切羽詰った感じから一転、冷たい口調でそう告げると、足早に部屋を出て行ってしまった。ぱたん、と閉まったドアの外、彼方の呑気な声が聞こえてくる。
「あっれー。もう帰るの?」
「はい。用事終わりましたから。ああ、そうだ。これ俺たちのライブのチケットです」
「なになに。音楽やってんの?」
興味津々といった彼方の声。
「ギターですけどね。ギターが好きで。ま、気が向いたら」
俺もギター好きー。とか、笑っていく声が遠ざかっていく。恐らく、彼と一緒に玄関まで歩いていったんだろう、と推測して、溜息をついた。
目の前に置かれた、封筒。とりあえずそれに手を伸ばし、中身を覗き込む。入っていたのは一本のビデオテープ。話の内容からして、彼の「アニキ」のものか。少なくとも、優ちゃんに関するものだと思う。
――― 気持ちが中途半端っていうなら。
ふと、腕に嵌めている時計のアラームが小さく音を鳴らした。
仕事の時間が迫っている。どうするかはまだ、気持ちがはっきりしなくて、とりあえず封筒を鞄に詰め込んだ。
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