身体が熱っぽい。この前、冷たい風に当たりすぎてしまったせいかも。
燻る熱を吐き出すために溜息をついて、棚の向かい側にある窓辺に寄りかかる。額をピタッとつけると、窓ガラスのひんやりとした冷たさが伝わってきて、気持ちよかった。
「優?」
唐突にかけられた声に、はっと息を呑んで慌てて振り向く。橘くんが怪訝そうな顔で立っていた。誤魔化すように微笑んで言う。
「最近、よく来るね。本を読むの苦手だって言ってたのに」
勿論、本が目当てじゃないことくらいわかってるけど、そう言って牽制するくらいしかできなかった。放っておいてほしい。そう思うけど、彼はきっと私の気持ちなんてわかっていて、それでも放っておけるような人間じゃない。案の定、苦笑だけ零して、すっと腕を伸ばしてくる。
「橘くん?」
額に手の平があてられて、あっ、と気づいたときには、腕を掴まれていた。
「熱あんじゃねえか。馬鹿、おまえっ、保健室行くぞ!」
「大丈夫っ!」
体重を後ろにかけて、引っ張っていこうとする彼を止める。だけど、思ったより熱があがっていたらしくて、力が入らずに後ろによろけてしまう。同時に目の前が真っ暗になって、体重が傾いていくのを感じていた。
――― ちょっ、ちょっと待って! 本気で言ってるの?
にやりと笑って告げられた言葉に、焦ってそう聞いた。当たり前だろ、と得意げな顔で返される。この顔と口調で言葉にされたものは必ずやり遂げると知っている私は呆れてしまう。そりゃあ、彼だけなら問題ない。むしろ、応援していたかもしれない。
「なんだよ、自信ないのか?」
「当たり前っ。だって、カイに聞かせるのと、赤の他人に聞かせるのと全然違うじゃないっ!」
非難だってされるだろうし。そうしたら、許可してくれたホテルの人たちやレストランの人たちに迷惑かけてしまう。
「ピアノだけがいいって。それだったら絶対みんな聞き惚れるから!」
いろんな大会で優勝したピアノ。その繊細でキレイな音は、あのレストランで流しても、きっと雰囲気が似合っているし、負けない。だからいい。だけど、私の歌は ―― 。
「俺のために歌えばいーんだよ。誰の前であっても、俺に聞かせるもんだと思って歌っとけ。そうすりゃ間違いねーって」
なっ、とあっけらかんにそう言いきって、くしゃりと髪を撫でられる。あまりにも断言される言葉に、呆れるしかなくなってしまう。いつもそう。この自信はどこからくるのか。この自信と、笑顔と。撫でられる温もりに勝てたことは一度もない。
「…………非難されたら、責任とってよ」
不満いっぱいの顔と拗ねた声で言うと、おおっ、と声を発して、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「俺のすべてを使って慰めてやるよ」
「そーいう責任じゃなくてっ」
「聞いて欲しいんだ。おまえが俺のために歌ってるのを。大きなところじゃなくてもさ。こう、アットホームな場所で、しっかりと聞き込んでほしい」
俺のピアノとおまえの歌 ―― 誰かの心の片隅に、覚えててほしいのかもな。
そう呟いた彼の言葉は、胸を痛くさせた。
「 ――― あ、起きた?」
瞼を持ち上げると、女性の顔が見えた。
「私……?」
「図書室で倒れたの。覚えてない? 三組の橘透夜くんが連れてきてくれたのよ」
戸惑うように発した声に、そう言葉が返されて、女性が保健室の先生だったことを思い出す。ああ、そうだった。確か熱があって、透夜に保健室に連れて行かれようとしたけど抵抗して ―― 。
「びっくりしたわ。あのクールで名高い橘くんが、「先生、こいつ助けて」って切羽詰った顔であなたを抱き上げて、姿を見せるんだもの。緊急事態かと思っちゃった。そしたら風邪引いてるだけっぽいし」
まあ、確かに風邪でも放っておけば肺炎とかになって命に関わっちゃうけど、と続く言葉は入ってこなかった。別のことが頭の中を埋め尽くす。
(いま、抱き上げてって言った?)
想像して、熱い身体に一気に冷水が浴びせられた気になる。
「今ね、教室に鞄を取りに行ってるわ。送っていくって。生徒をサボらせるわけにはいかないんだけど、譲らないのよねえ。愛されてるわね」
からかうような口調で言われるけれど、全部素通りしてしまう。混乱しているうちに、がらりっと扉が開いた。
「先生っ、優の具合は?!」
入ってきた姿を認めて、反射的に手にしていた枕を投げつけていた。
「透夜のばかっ!」
「 ――― っ」
枕は見事に顔面にヒットする。唐突な衝撃に透夜は呆然となって、枕が床に落ちても突っ立っていた。
「しっ、信じられないっ。なんで、どうして、抱き上げるとかありえないから!」
誰かに見られたらっていうか、絶対見られてるし。誤解されるに決まってる。せっかく距離を取っていたのに。どうしよう。学校中の注目の的である透夜との関係なんて知られたくなかった。
「おまえ……透夜って」
まだ突っ立ったままの透夜が呟いた言葉に、はっと我に返った。返ったけれど、今問題にしてるのはそんなことじゃないっ。更に文句を言おうとして、急に聞こえてきた笑い声に視線を向ける。
「篠原さんって物静かな子だと思ってたけど、意外だったわね……。我が学校のトップ人気の橘くんにそんなはっきり……面白いわ」
「先生、笑い事じゃないって」
透夜は困惑したように言って、頭をかいた。その表情がどこか嬉しげに見えるのは気のせい?
眉を顰めてムッとした顔で見ていると、それに、と言葉を続ける。
「こいつ元はこんな感じ。俺いっつも、負けてたもんなー」
しみじみと言われる声には懐かしさが入り混じっている。それに気づいた瞬間、顔が強張っていく感じがした。
(あんな夢を見たから ――― 。)
幸せだった過去は、つい現実を錯覚させてしまう。今もまだ、続いているんだと。何も変わってないと。
「どういう関係なの?」
「幼馴染ですよ、ただの」
ぽんっと手の平が頭に乗っかる。反射的に振り払っていた。パンッ、と鋭い音が聞こえてきて、同時に我に返る。驚いた顔で見てくる視線に気づいて、慌てて謝った。
「……っ、ごめ」
二度目だと思い出した。最も、リクさんの場合は頬だったけど。
「ごめん。だらだら喋ってる場合じゃなかったよな。門にタクシー呼んだからさ。そこまで歩けそうか?」
すぐに気遣うように顔を覗き込んできて、透夜はそう優しい声で言ってくれた。
――― いつのまに。こんなふうに、優しく。気遣うことができるようになったんだろう。昔の透夜は甘ったれで、頼りになんてまるでならなかった。
置いていかれたような、寂しい気分になる。
「熱が高いから、ちゃんと病院に連れて行ってね」
「わかってる。医者してる叔父さんがいるから、大丈夫だって」
透夜に支えられながら保健室を出て、廊下を歩いていく。まだ授業中なのか、静まり返っていた。
「橘くん。もう、いいよ。ひとりでヘイキ ――― 」
優、と言いかける言葉を遮って、真剣な声で名前を呼ばれた。どきん、と胸が高鳴る。高鳴ってしまった。声質は全く違うはずなのに、真剣な口調だとほんの少し ―― 重なる。
「透夜って呼べって。いい加減、目を逸らすのはやめろよ。わかってるだろ?」
告げられる言葉は厳しい。
( ――― わかってる?)
目を逸らしてるつもりなんか、ない。ちゃんと彼がいないことはわかってる。
「立ち止まってちゃダメなんだ。ちゃんと、前に進まないと」
そう思うのに、透夜のその言葉は、深く胸の奥に響いた。
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