ひたすら、募る片想い

 「なになに、これー」
 打ち合わせが一段楽して休憩を取っていたとき、乱雑に置いたバックからはみ出ていたビデオテープに気づいた彼方が、好奇心をむき出しにしてそれを手に取った。自動販売機の薄いコーヒーが入ったコップに口をつけながら、ああそれと思い出す。
 「まだ見てないけど、なんだっけ。えーと、ほら。今日来た、優ちゃんと一緒にいた男」
 「陸さん。その興味のないやつの名前は覚えないっていう特技は自慢にならないとオレは思うわけだよー」
 はぁ、やだやだ。と呆れたように首を振って、「透夜くんでしょう」と答えを教えてくれた。ああ、そうだったと頷いて、話の矛先を変える。
 「だから、その透夜くんにもらったんだ。覚悟がないなら見ないほうがいい、みたいなことを言われた」
 「へぇ。意味深だねー」
 面白がるように彼方はビデオテープを興味津々に眺める。ふと目が合う。その視線に「見たい」という気持ちが込められているのは長い付き合いでわかりすぎる。だけど、気持ちが中途半端なら捨ててと言われたことを考えると、まだ自分の中ではっきりと形になっていないのに好奇心から見てしまうのは気が引けていた。

 「それ、どうしたの?」

 不意にふたりの間に、甲高い声が割り込んできた。空気を入れ替えるためにドアを開きっぱなしにしていたことをすっかり忘れていた。振り向くと、顔見知りの女性が立っていた。事務所の営業−スカウトを主に担当していて、やり手だと名高い朱鷺さん。事務所関連ではお世話になっていることもあって、ちゃんと名前を覚えていた。
 「陸の、秘蔵ビデオ」
 面白がるように、彼方はビデオテープを振って見せた。洒落にならない。ため息をついて、取り返そうとするけれど、それより早くするりと別の手がビデオテープを取っていった。
 「面白そうね、観ましょうよ」
 クスリと赤い口紅が笑みを形作る。
 「いやです。今見るつもりはありませんよ」
 はっきり断言して、返して下さいとばかりに手を伸ばそうとしたけれど、朱鷺さんはかなたと顔を合わせて、逃げるように踵を返すと、部屋の片隅にあるビデオ機器に手を伸ばした。
 「やめて下さい!」
 焦って止めるために駆け寄ろうとして、彼方に羽交い絞めされた。
 「こらっ、彼方。洒落にならないっ!」
 「いいじゃん、気になるでしょー。観ちゃえば気持ちも固まるって」
 何かを知っているような口調に思わず暴れるのをやめる。どういうつもりだと、視線をむけてもニヤニヤとした顔があるだけだった。その間に、手早く準備した朱鷺さんがいつのまにか再生ボタンを押してしまっていた。

 映し出されたのは、どこかの一室。綺麗に整えられている内装を見ると、ホテルだろうと推測できた。最新のビデオ機器で撮ってあるのか、画質はよく見やすい。

 『はーい。透夜、ちゃんと撮れてる?』
 唐突にビデオの中に現れたのは、優ちゃんだった。
 ―――― どきんっ。
 胸が大きく跳ね上がる。見たことがない、満面の笑顔。
 『大丈夫だって。あれ、アニキは?』
 『カイは緊張しすぎて、昨日眠れなかったらしいので、イマ誤魔化すために顔を洗いに行って ――― 』
 『てめっ。嘘つくな、優!』
 ぱふっ、と後頭部に当たった枕に、それでも楽しそうに優ちゃんはクスクスと笑いながら後ろを振り向いた。その先には、彼女を見守っている男がいた。男から見ても美形だと頷ける。思わず目が釘付けになって、その表情に目が離せなくなる。一瞬で人を惹きつけてしまう魅力を感じた。鋭い口調とは裏腹に、優ちゃんを見つめるその目は柔らかく、甘い。
 『眠れなかったのは ――― 』
 『わーっわーっ。透夜っ、ほらっ、試し撮りは終わり! 本番は夜でしょ!』
 にやりと笑って言うカイという男を遮って、優ちゃんは焦ったように言う。
 『はいはい、惚気はふたりでやってくれ。アニキ、準備万端?』
 『もちろーん。優と二人なら俺はいつでもかかってこい状態ってもんだ』
 なっ、と優ちゃんの髪をくしゃりと撫でる。それを受け止める顔もまた、柔らかく甘い。そうして、とても幸せそうな笑顔。どきりと胸が鳴るのに、息が詰まりそうになってしまった。苦しい。今すぐビデオを止めてしまいたい。だけど、動けなくて、視線を逸らすこともできなかった。

 場面が変わって、どこかのレストランの内装へと変わる。薄暗く、テーブルには蝋燭の炎が明りとしてついていた。カメラが向いているステージ上だけが淡い光のスポットライトに照らされている。やがてその中に、優しいグリーンのドレスを纏った優ちゃんが姿を見せて、僕は再び目を奪われる。さっきまでのあどけなさが隠れてしまって大人びた雰囲気に包まれていた。髪をひとつにまとめて、化粧を薄っすらとしている。とても可愛らしい。そうして、少ししてから後ろのピアノがある場所にカイが黒いタキシードを纏って現われた。彼もまた、さっきの明るく朗らかな雰囲気を払拭して、本来の色気が前面に押し出された感じで妖艶な気配を漂わせていた。

 ピアノがいくつか音を合わせた後で、軽快なジャズの音を奏で始める。
 「っ、」
 僕は言葉を失った。曲は知ってる。軽快なリズムのもの。だけど、そこに流れるピアノの音は、一瞬で惹きつけられてしまうほどの凄みを持っていた。聴こえてくる音は繊細で深みがある。なにかを伝えてくる、音。なんだろう。優しさだったり、喜びだったり。ときには、悲しみだったり。感情がダイレクトに伝わってくるような音だった。
 「なに、これ。胸に響いてくる……」
 彼方の戸惑うような声が聞こえてくる。うん、と僕は言葉もなく同意していた。

 彼の腕鳴らしが終わると、次は優ちゃんが合わせるようにマイクを手に取って、リズムを取りながら、歌い始めた。その歌声に、感動が深まっていく。共鳴しているように聞こえた。優ちゃんの透明な声に愛おしさがこもって、彼の音に深い慈しみが流れていく。お互いへの想いを伝え合うかのように。
 聞いてると、胸があったかくなる。幸せな気分になる。歌で感動するってこういうことなんだ、って思い知らされた。
 はっ、と気づいたときには、ビデオ画面はすっかり砂嵐に変わっていた。喉が渇いているような感覚があって唾を飲み込んだ。ごくりとやけに大きな音がして、唾を飲み込むことも忘れていたほどに見惚れていたことを自覚して呆然となった。

 「……思い出したわ」
 ふと、部屋の中に漂っている余韻を打ち破るように朱鷺さんの声がして、僕は視線を動かす。驚いた顔つきをしている彼女の視線は、いまだテレビ画面にあった。
 「思い出した、思い出したっ。彼、橘カイくん。私、彼をスカウトに行ったことあるのよ!」
 一年くらい前のことだけど、と告げられた言葉に僕は驚く。かなたも驚いたように目を瞠って、すぐに好奇心に満ちた顔で訊いた。
 「で、どうしたの?」
 「あっさり断られたわ。というか、……まったく相手にされなかったんだけどね」
 詳しく説明してあげるわ、と肩を竦めて、ソファに座った。

 「彼女のこと、諦める?」
 朱鷺さんが出て行った部屋で、彼方がもう何度目かのテープを繰り返し見ながら聞いてきた。僕はテレビ画面から目が離せずに、曖昧な返事をする。

 「わからない」
 ――― 今は、何も。
 この前歌ってくれたときにはなかった響きが、この中にはある。あの時の歌声も僕の理想そのままだったけど。これを聞いたら、どうしたって。このままが欲しい。だけど、明らかに僕はこんなふうにピアノを弾けないし、彼女のこの歌声を引き出せない。完膚なきまで叩き潰された気分だ。
 「歌も。彼女も。陸、諦めるのは簡単だよ」
 落ち込んでいると、彼方に真剣な声で告げられる。
 (わかってる。諦めるのは簡単なんだ……。)
 だけど ―― 。
 画面の中で笑う彼女。うるさいくらいに高鳴り続ける胸の音。幸せそうに微笑むふたりに、切なさが溢れてくる。そうして、気づかされてしまう。そう簡単に諦めることができないほど、僕はもう。








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