一歩ずつ、前に

 俺の我侭を何も言わずに聞いて欲しい。
 それがカイとの最後の約束。いつだって、カイの我侭は私に幸せをくれるものだった。幸せと、ほんの少し感じていた胸の痛み。

 「熱はもう下がったね」
 私の診療を終えたおじさんはほっとしたように言うと、首にかけていた聴診器をバッグの中に片付ける。それを見ながら、私は頷いた。
 「おじさんのおかげです。薬有難うございました」
 高熱が続いたから身体はまだ気だるいけれど、喉の痛みも、鼻水も特には酷いことにならなかった。保健室から早退して三日。明日か、明後日には学校に行けそう。そう思うと、少し複雑になった。
 「透夜は三日間見舞いに来てるんだろう? 今日もそろそろか?」
 面白そうに含んだ物言いをするおじさんに溜息をついて、部屋の窓を見る。太陽はすっかり橙色へ外の景色を染めてしまっていた。学校が終わる時間。この三日間そうだったように、同じ時刻に来ることは想像できた。あと、一時間。
 「仕方ない。あいつは、病気には敏感なんだ」
 「 ―― わかってます」
 おじさんの諦めたような口調に、苦笑が浮かんでしまう。わかってる。だから、呆れはするけど、私も諦めている。私だって、同じように身近にいる誰かが病気になったら、不安になってしまうだろうから。
 「そうか。そうだな」
 納得するように頷いて、おじさんはベットの側に持ってきていた椅子から立ち上がる。
 「帰るんですか?」
 「ああ。まだ仕事がいくつか残ってるからな」
 ぽんぽん、と優しく頭を叩かれた。優しいその仕草は胸を温かくする。ゆったりと目を細める姿は、まだまっすぐ見れなくて、それとなく視線を窓に向けた。白い遮光用のカーテン越しでもわかる橙色の光がキレイで、そっと目を細める。

 「おじさん」
 ふと、気にかかって呼びかける。

 返事はなかったけれど、優しい空気を感じ取って、聴いてくれていることがわかった。だから、口を開く。

 「よくわからないけど、私は立ち止まったままなの?」
 ちゃんと前に進んでると思ってた。生きて、学校に毎日通ってる。過去にしがみついてもいない。それなのに、どうして。透夜は、どうして。
 「透夜が言ったのか?」
 私は小さく頷いた。熱でうなされている間も、透夜の言葉が浮かんでいた。考えてみたけれど、答えが出せなくて。見つけられない答えに、戸惑いが生まれた。困惑して、胸が苦しくなる。
 「優ちゃん、君は ―― 」
 おじさんの声に顔をあげる。迷うように瞼を伏せたおじさんは、だけどすぐに真剣に見つめてきた。
 「今、幸せだと言うことができるかな?」
 ぎくりと身体が強張るのを感じた。
 おじさんの目に柔らかな光が浮かぶ。
 「君は確かによくやっていると思う。私自身、愛する人を亡くす経験はないから、すべてがわかるとは言えない。だけど、医師だからね。愛する人を亡くしてきたひとたちを側で見てきた。だからこそ、言える。君は悲しみに飲み込まれず、ちゃんと頑張って生きている。けれどね」
 言葉を止めて、おじさんは息をついた。
 「けれど、君は、カイに、いま自分は幸せだと胸を張って言うことができるかな?」
 おじさんの言葉が鋭く胸に突き刺さる。
 「 ―― あの子は言っていたんだ。自分は今までも幸せだったけど、きっと。これからも幸せなんだと」
 あの子、という言葉に面影が浮かぶ。ぎゅっと無意識に手の平を握り締めていた。
 「これからも、幸せ?」
 どういう意味で言ったんだろう?
 私が首を傾げると、おじさんは小さく肩を竦める。

 「これは推測だが、あいつは自分のしたいことを自分で出来るだけ叶えていった。そりゃあ、まだ若かったから、あれもこれもしたいという願望があっただろうさ。未来を夢見たいと感じてもいただろう。悔しかっただろう。だけど、最後まで君の傍にいて君を愛し、家族を愛し、その時、やりたいことを自分の力でやり遂げていた。それを幸せだと感じていた。だから、堂々と言えたのさ。幸せだったと。そして、きっと。それは君の幸せにも繋がるんだと信じていたんだ」

 「私の……?」

 わからない、と私は首を振る。だけど、胸が痛くて、涙が溢れてくるのは、本当はわかっているからなのかもしれない。カイの想いを一番身近で感じていたのは私だから。頭ではわかっていなくても、心は ―― 。

 「あの子は君に愛されて幸せであり続けることができる。だけど、君が幸せじゃないと、あの子は幸せじゃなくなる。そうだろう? 幸せだと笑えない君をあの子はなんて言うだろうね?」
 思い浮かべた。
 今の私を見たら、カイはなんて言うだろう。想像してみる。きっと。
 「 ――― そんなおまえ見たくねぇよ?」
 私がぽつりと零すと、おじさんは一瞬瞠目し、すぐに笑みを広げた。
 「ああ。そんな感じだ」
 ひとしきり、二人で笑い合う。
 「優ちゃん」
 不意に表情を引き締めたおじさんに呼ばれて、私もその目をまっすぐに見返す。少し寂しげに、願うような口調でおじさんは言う。
 「カイを幸せでいさせてやってくれ」
 その言葉は私の胸にじわりと染みこんでいく。
 私はゆっくりと頷いた。それに合わせて、涙がぽたりと手に零れ落ちる。おじさんは最後にもう一度ぽんぽんっと頭を軽く叩いて今度こそ、部屋を出て行った。

 橙色の光に染まる窓を見る。
 『立ち止まってちゃダメなんだ。ちゃんと、前に進まないと』
 透夜の言葉を思い返す。ようやくその意味がわかった。
 幸せとも不幸とも言えず、何もしようとしない自分のままだとダメなんだ。ちゃんと幸せになるために、前に進まないと。カイが後悔しないように。カイに愛されたから幸せになれる私がちゃんといるんだって誇れるように。そんな私を愛したことがカイの幸せであるように。それはきっと、カイの我侭なんだろうけど。我侭を聞くって約束だから。
 幸せになる努力をする。カイが与えてくれたものから、幸せになる。

 立ち止まっていたところから、一歩踏み出してみる。

 まずは ――― 。







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