何度も押し掛けてごめん、と校門の外で帰宅してきた優ちゃんを捕まえてそう謝った。力ない僕の声に、驚いたような視線が注がれる。だけど、すぐにそれは微笑みに変わった。
「私も、会いに行こうと思ってたんです」
思いもがけない言葉に僕は息を呑む。
「僕に?」
信じられず、確認するように零した問いかけに優ちゃんははっきりと頷いた。
ただそれだけのことなのに胸がどきりと高鳴り、期待と喜びを感じ始める。緩みそうになる顔を引き締めて、立ち話もなんだからと車まで促した。
もう一度、海に行きたいと言った彼女に拒否する理由はなく、車を走らせる。前のときとは違って、黙っていることができずに何かにつけ、話しかけていた。仕事のこと、些細な日常。まるで喋っていないと、彼女が今この瞬間すぐに消えてなくなってしまうかのように。そんな焦りを抱く僕をよそに、ひとつひとつの話題を丁寧に聞いてくれていた。時折、相槌を打ってくれたり、興味を覚えたように聞き返してくれる様子に嬉しくなる。それと同時に少し疑問も覚えた。この前までは距離を置くだけじゃなく、分厚い壁まであって、話しかけても曖昧に頷くだけだったのに、どうして。だけど、その疑問も彼女との会話を交わす喜びのなかで霧散していく。車の中を満たす小さな音量で流れる音楽と、彼女の凛としている声。僕の話に零す彼女の笑い声。優しい空気に包まれて、この時間が永遠に続けばいいと強く思った。
海についてから道路脇に止めると、彼女は今度は車を降りず、助手席側の窓を開けてから、入り込んでくる潮風に目を瞑った。僕は近くにある自動販売機を見つけて、飲み物を買ってくると車を降りる。温かい紅茶と微糖の珈琲缶を取り出し口から持ち上げる。そのとき、パタンと小さく音が鳴って車に視線を向けると、彼女が降りて助手席のドアに寄りかかっていた。気持ちよさそうに手を組んで大きく挙げ、身体を伸ばしている。その様子は子猫が伸びをしているような可愛らしさがあって、むず痒くなるようなくすぐったさを覚えた。
(こんな気持ちになるなんて、いつ以来だろう ――― 。)
そう感じると同時に、やっぱり彼女が好きだと自覚する。好き過ぎてどうしようもないところまでとっくに嵌められていた。それなのに諦めるなんてできやしない。
『だったら、覚悟決めろよ ―― 』かなたのそんな声が聞こえて、そうだなと頷いていた。覚悟を決めないと、彼女を好きだという気持ちから前に進めない。
缶を二つ持って、足を踏み出した。
「ビデオを観たんだ」
紅茶の缶を受け取ったまま、両手を温めるように持っている彼女に、珈琲缶のプルトップを開けて一口流し込んでから、僕は話を切り出した。
海を眺めていた彼女の視線が僕に向けられる。
「君が歌ってた。橘カイ君の演奏で」
「…………透夜のお節介」
ぼそりと呟かれた声に、ほんの少し胸が痛む。この前は「橘くん」と呼んでいたはずなのに、と違うところが気にかかった。ああでも、ビデオの中では呼び捨てだったかと思い出す。
海に視線を向ける。浜辺には誰もおらず、その静けさは寂しさを感じさせた。日が沈み始めていて、橙色に染まっていく砂浜が煌いて見える。その柔らかな眩しさは気持ちを素直にさせてしまう。
「言葉も出なかった。彼が弾くピアノにも。君の歌にも。本物を見つけた、って不覚にも泣かされたんだ」
まるで子どもの頃、親に連れられて行ったワールドコンサートで歌の神様と呼ばれていたひとに出会ったときのように。その歌を ―― 声を聞いたとき、胸に暖かいものがこみあげてきて、幸せな気分を味わい、涙が止まらなくなって、これが感動することだと実感したときみたいに。彼のようになりたくて、歌を唄ってきたけれど残念ながら『本物』にはなれなかった。そう認めるのに時間はかかったけれど。
「……リクさん」
躊躇うように呼ばれる名前に苦笑して、更に口を開く。
「彼のように君を歌わせることは難しいと思う」
まずピアノからして、僕はあそこまで才能がない。伴奏程度ならできるにしても。優ちゃんの歌をあんなふうに導いていけるかわからない。
「けど、一緒に作っていきたいんだ。僕たちの歌を。君に歌って欲しい。僕のその気持ちはやっぱり変わらないよ」
海に向けていた視線を優ちゃんに向ける。彼女は俯いていた。橙色に照らされている横顔から見える長い睫が落す影、頬の曲線、柔らかそうな唇、すべてが物憂げな表情を作っている。その姿があまりにも綺麗で、彼女が話しかけてくるまで自分でも気づかないうちに見惚れていた。
「私も ――― 」
彼女が発した声にハッと我に返る。
「えっ?」
「私も、歌いたいです」
幻聴が聞こえたと思った。幻聴、もしくは聞き間違え ―― 。
ごめん、もう一回言ってと口にするよりも先に、彼女は俯かせていた顔をあげ、ふっと僕に視線を合わせた。射すくめるような、真剣な眼差しに胸がはね上がる。
「 ――― 歌いたいんです」
しっかりと告げられた言葉は芯があって、海が鳴らす波の音さえ遠ざかり、まっすぐ僕の胸まで届く。この瞬間を、彼女とのこの時間を、僕は一生忘れないだろうと確信するほどに、それはとても感動した時間だった。
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