ここから、未来へ

 呆然とした顔つきをして、立ち尽くしているリクさんの姿にもしかしてすでに手遅れで、彼は諦めてしまったのかもしれないと思った。それか透夜から預かったビデオを観て、やっぱり歌を唄う才能がないと考えていたところでタイミングが悪かったのかもと不安になる。
 「あ、あの ―― 。やっぱり……」
 ダメですか、と問おうとした言葉はリクさんに抱きつかれて遮られた。
 ( ―――― は?)
 我に返るより先に、嬉しそうな声が聞こえてくる。
 「やったぁっ! 今のなしはダメだよっ! ちゃんと聞いたからね! 録音は ―― してないけど、僕の心に刻んだからっ」
 これが二十半ばの男性の喜び方だろうかと疑問に思ったけれど、その素直な感情表現には自然と胸が温かくなる。受け入れてもらえたことに安心して、やっぱり嬉しくなった。 ――― だけど、流石に。
 「…………喜んでもらえたのは嬉しいんですけど、放して下さい」
 見知らぬ匂いと、温もりに胸が苦しくなる。もがくように身体を捩って言うと、慌てて彼は離れてくれた。
 「わっ、ごめん! つい……」
 顔を見ると、ごめんっと謝られた。サングラスではっきりと表情はわからないけれど、いつだって真剣だったから、きっとその言葉も本気で、わざとじゃないことは伝わってくる。だからにっこりと笑って返した。
 「へいきですよ」
 「 ――― 僕はヘイキじゃなかったけど」
 ぼそりと何かしら呟く声が聞こえた。高い波がきたのか一段と大きくなった波音にはっきりと聞き取れなかった。
 「何か言いました?」
 聞き返すと、なんでもないと少し拗ねたような返事があった。
 首を傾げながら、まあいいかと肩を竦める。海に視線を向けると、太陽が地平線に沈んでいく光景が見えた。完全に沈みきるまで、そう時間はかからない。そうなる前に、と思って、私はリクさんに向き合った。
 「よろしくお願いします」
 頭を下げて、右手を差し出す。すぐに、右手は大きな手に握られた。大きくて、力強く温かい手。そうして、柔らかい声が降ってきた。
 「はい。僕こそ、よろしくお願いします」
 真剣で柔らかいその声はゆっくりと胸の中に染みこんでいく。泣きたい気持ちになりながら、堪えるためにぎゅっと繋いだ手を握った。そのままぶんぶんっと大きく振る。
 「わっ、優ちゃん?!」
 驚く声に顔をあげて、悪戯っぽく笑って見せた。
 「はい、パス」
 だいぶ温くなってしまった紅茶の缶を投げて、彼に渡す。慌てて受け取ったリクさんは困惑した表情を浮かべた。私は構わずに、以前と同じように海に向かって走り出す。

 「優ちゃんっ?!」

 追いかけてくる声を感じながら、波打ち際で止まった。そうして、振り返る。慌てて追いかけてくるリクさんを見ながら、自分がやっと戻ってきたような ―― 最初からあったけれど、見失っていた自分自身を取り戻したような不思議な感じを覚えた。追いついて、少し距離を取った場所に立っているリクさんに微笑みかける。まっすぐ空に向かって、片手を挙げた。
 「歌いまーす!」
 そう叫んで、昔好きだったイギリスの女性歌手の歌を唄う。

 のびやかなその曲は、女性歌手が亡くなった後もたくさんの歌手が歌い継いできている。だけど、私もカイもやっぱりその女性歌手が紡ぎだす曲に合わせたのびやかな歌声が一番だと思っていた。でも、その歌の由来を知ってから、私は二度と歌わなかった。特にカイの前では。カイの前で歌わないから、誰の前でも歌ったことはなかった。

 ――― 愛する人を失って、それでも未来へ歩いていくことを決めた彼女が作った歌。愛する人を思い出にするために。胸の中にしまうために、必要だった、歌。私はここから、未来へ向かう。あなたと過ごした、この場所から。そんな意味が込められている。

 波の音と混ざり合う歌を、リクさんは何も言わず聴いていてくれた。そんな彼の姿を見て、確信する。

 ここから、未来へ ――― 。

 幸せになるために。それはきっと、カイがこれからも幸せだと言っていたことに繋がるような気がするから。
 そんな想いを抱いて私はリクさんと一緒に海を後にした。







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