平穏な日々が今は、


 もしもいつか、おまえが ―― 。

 夏の強い日差しを受けて煌く海を眺めながら呟く声を上手く聞き取ることができずに、その背中をじっと見つめて聞き返す。
 「……何か言った?」
 突っ立っている彼はなにも答えない。それに不安を覚えて、どんっとおもいきって背中に飛び乗った。
 「おわっ。おまっ、アブネェよ!」
 唐突な行動に焦りながらも、彼はしっかりと支えてくれる。落すことなく、おんぶをしてくれた。体勢を整えたのを見計らって、男のくせにほっそりとなぜか色っぽくさえ見えてしまう首に後ろから腕をまわして、ぎゅっと力を込める。
 「な、に、か、言った?」
 「ぐぇっ。しま、絞まるっ!」
 わざとらしいくらいに大げさに呻いて、ギブギブと手を軽くはたかれる。後ろからは横顔しか見えないけれど、それでも整った顔はどんな表情を浮かべていても、変な顔にはならないんだな、とどうでもいい事を思ってしまった。腕の力を緩めて、潮の香りを吸い込んだ髪に頬を摺り寄せる。
 「優」
 優しく名前を呼ばれて、返事をする。彼が見ている海を、同じように眺めて、だけどきっと気持ちは違う。私は広い背中から伝わってくるぬくもりを忘れたくないと思ってる。忘れたくない。ずっと、覚えていたい。感じていたい。―― 離れたくない。消えてしまおうとする、このぬくもりを。それは今、彼が願っている気持ちとはきっと、違う。彼は、時間の流れを知っているから。その中で失われていくものもあることをわかっている。
 「 ―― 優」
 繰り返して呼ぶ声は、最初よりもずっと、悲しみに満ちている。そう聴こえてしまうのは、あまりにもこの夏の日の海が、生き生きとしているからだ。眩しい太陽、煌く海面。勢いよく返る波。そんな景色が、あまりにも羨ましく見えるから。
 「俺は、おまえを ―― 」

 ――― 優ちゃんっ!
 切羽詰った声にハッと、目を覚ました。うつ伏せていた頭をあげると、心配そうに見つめてくる青い目が間近にあって思わず息を呑んだ。どうしてここにいるのか、それが誰なのかもわからずに混乱する。
 「ヘイキ?」
 優しく声をかけてくれた男性をじっと見つめて、思い出した。
 「リクさん……」
 そうだった。ここは楽屋でテレビ撮影録画でのスタンバイ中。我に返ると、ほっと胸を撫で下ろしてリクさんは隣の椅子に座った。にっこりと微笑んでぽんぽんと頭を叩いてくる。
 「本番前に居眠りなんて、我が歌姫は度胸があるね」
 「ごめんなさい。つい」
 「予定より三十分押してるみたいだから、いいけどさ。疲れてる?」
 気遣ってくれる言葉にじわり、と胸が温かくなる。首を振って否定して、目の前にある鏡を見た。お化粧をして、見慣れているはずの自分とはどこか違う顔。歌うためには仕方ないこともあるって、流れた月日で実感してきたけれど、まだ。気持ちが追いつかない。
 「弱音くらい吐き出してもいいよ。僕はなんだって受け止めてあげるから」
 軽い口調ではあるものの、真剣な眼差しを注がれて、それがリクさんの優しさだとわかるから頷く。笑みを返して、大丈夫と口にした。
 「本当にダメなら、ちゃんと言います」
 「約束だよ?」
 念を押すように言うリクさんに思わず頬が緩む。
 歌に関してはリクさんは厳しい。それは歌うと決めて、プロになってから尽く思い知らされた。スカウトしてきたときの甘く優しい顔は一切なくて、妥協知らずの姿に、尊敬さえ覚えた。だけど歌以外の、こういう垣間見せてくれる顔はあの時と変わらない。本当に、素を曝け出してくれる。それが嬉しかった。
 「わかりました」
 素直に返事をすると、満足したような顔でリクさんは頷いた。それから、ふと思いついたように言う。

 「 ―― 今度さ」

 急に変わった声音に、思わず身体の中を緊張感が走り抜ける。けれど、逸らすこともできずに、じっとリクさんを見つめていると、彼は何かに気づいたように瞼を伏せた。ほんの少し、何かを考えるように押し黙って、それとなく椅子から立ち上がる。

 「ちょっと様子見てくるよ。待ってて」
 「あっ、はい ―― 」
 最後まで返事が終わらないうちに、扉はパタン、と閉まってしまった。
 独りきりになって、ほっと胸を撫で下ろす。テーブルに肘をついて両手で顔を覆った。
 (だめ、だめだよ ―― 。)
 リクさんの好意は明らかで、素直に嬉しいと感じる。だけど、またあの頃のような感情を持つことに恐怖を感じてる。
 ――― 罪悪感。
 違う。まだ、私の中では、あの頃の気持ちが胸の奥で燻ってる。終わっていない、彼への想いが、まだ ――― 。

 思わず零した溜息がどんな想いを含んでいるのか、自分でもわからなかった。







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