動揺する、心


 ――― 手紙?
 郵便受けから取り出した手紙に違和感を覚えて、まじまじと見つめる。封筒は薄い青。切手も消印もなくて、ただ『篠原優サマ』と宛名だけが書かれてあった。筆跡だけ見ると、男性っぽい。ファンレターとかは全て事務所に届くようになってるから、実家が知られているはずない。疑問を感じながら、封筒を開けると、二枚のチケットが入っていた。
 「ピアノのコンサート?」
 ぎくり、と持つ手が強張る。奏者の名前は聞いたことも、見たこともない。
 「どうして?」
 全然わからない。わからないけれど、コンサートのタイトル。『海に還る―Last Years Love―』。その題目に、胸がざわりと波立った。

 「で、俺かよ。リクさん誘えばいいのにさ」
 隣に座ってぶつくさ文句を言う透夜に苦く笑みを零す。不貞腐れた表情をしているくせに、嫌がっていないことは長年の付き合いからわかる。
 「二人だったら目立つでしょ。透夜と一緒なら安心だし」
 「それって、男として見られてないってこと?」
 ちらりと視線を向けてくる透夜にどきりと胸が高鳴る。高校を卒業して、プロのギタリストになってから腕を買われて様々なアーティストたちと徐々に活躍している彼は、最近やけに大人っぽい表情をするようになった。バンドを組んで私の後ろでも弾いてくれているし、頼りになる。小さい頃を知っているだけあって、その成長振りに驚かされていた。そう言うと、俺の姉かよ。と苦笑されるけど。透夜とは家族のような関係だった。透夜は妹みたいに思ってるんだろうけれど。
 「まあいいか。俺もこんなふざけたことする奴、気になるしな」
 招待席に座って、不満そうに零す透夜に、ようやく不機嫌なのはコンサートに誘ったことじゃなくて、このチケットを私に送ってきたことなんだとわかった。
 開演時間になって、ざわめいていた会場が静まり返る。薄暗くなった中で、スポットライトがついて、ピアニストが姿を見せた。
 ぎゅっ、と思わず隣に座っている透夜の腕を握っていた。
 「 ――― っ!」
 小さく息を呑む音が隣からも聞こえる。そんな、まさか。と呟きが零れ落ちる。それを発したのが透夜なのか自分なのかわからない。それほどに、動揺してしまっていた。見たくない。見ていたくない。心がそう訴えるのに、視線を逸らすことができなかった。

 「アニ、キ……」

 透夜の驚愕を含んだ小さな呟きが、聞こえた。

 『馬鹿なこと言わないで。』即座に言い返したくなったけど、唇さえも動かすことができずに、ただ、ピアノを弾こうとする姿を見つめる。あまりにも、似過ぎてる。髪形や、服の着こなし方。歩き方。客席への礼の仕方。ピアノに向かう姿。弾き始める前の、わずかな間の取り方。そして、演奏が流れてきて、弾き方もそのままだと、眦が熱くなるのを感じた。

 「……こんなの、」
 嫌だ、と否定したくなった。目が離せない自分に悔しさを感じた。憤りを覚える。いろんな感情が混じり合って、最後には悲しい気持ちになる。

 演奏が終わって、会場には沢山の拍手が鳴り響く。演奏者は椅子から立ち上がって、観客席に一礼をした。
 (えっ……)
 顔をあげた彼の目と合う。
 にやり、と笑ったような気がした。その笑みは、私をからかうときの、いつもの。はっと重なり合う姿に息を呑んだ。ぎゅっと、手の平を握る。爪が当たって、鋭い痛みが走った。そんなわけない、と繰り返す。

 ――― 唯一、瞳の色が真っ黒だったことが救いだと、心の片隅で思っていた。

 演奏が終わってから、透夜も、私も、何を喋れば良いかわからずに、沈黙が続いていた。
 「…………帰ろうか」
 ようやく透夜がそう発した。その声にハッと我に返る。周囲を見ると、他の観客はすでにいなかった。スタッフが片づけを始めていて、そうだね、と頷いた。急いで立ち上がる。足元が疎かになって、転びそうになった。
 「おいっ。大丈夫か?」
 途端、透夜がいる位置とは反対側から腕をつかまれて支えられる。
 「っ、あ、はい。ありが ―― 」
 顔を向けて、その姿を捉えた瞬間、お礼を言いかけた唇が凍りついた。きっと、唇だけじゃない。全身が、金縛りにでもあったように、動けなくなった。透夜は警戒心を露わに視線を向ける。
 「あんた……」
 「篠原優と、橘透夜だろ? 俺は、かいり。よろしくしてやってくれ」
 ふっ、と穏やかに笑う顔は、さっきまでピアノを弾いていた人物で。間近で見れば、顔は全然違う。似ているところなんて、ひとつもない。だけど、その仕草が ―― 雰囲気が。まるで。
 「よろしくする義理はない。なんのつもりなんだ?」
 「透夜っ?!」
 不意に透夜に腕を引っ張られて、支えられていた腕から引き離される。
 いいから黙ってろ、と透夜の視線に射抜かれて口を閉ざす。だけど、かいりと名乗った彼は飄々とした態度で受け流した。
 「まぁ、そんな敵視すんなって。俺はただ、あんたたちと仲良くなりたいだけ」  真っ黒い瞳は謎めいていて、じっと見ていたら視線が合った。途端、心の中に疼いていた疑問が溢れ出してくる。
 「……あなたは、知ってるの?」
 私に招待状を送ってきたんだから、偶然なんかじゃない。あの雰囲気も。彼の姿も。自然とあるものじゃなくて、作り出されたもの。わかってても、聞かずにはいられなかった。
 ああ、と返事をして、まるでもったいつけるようにゆっくりと開いていく彼の唇から視線が逸らせなくなる。
 「 ――― タチバナ、カイ」
 胸の奥で大切にしているひとの名前。
 聴くたびに、胸が震える。大好きだった、今もずっと好きでいる忘れられないひと。中学を卒業するまで ―― 私の、すべてだった。

 「ふざけんなっ!」

 急に放たれた大声にハッと我に返る。透夜を見ると、彼は傷ついたように瞳を揺らしていた。透夜にとっても、たったひとりの兄だった。昔から、とても仲が良くて、透夜はブラコンだと自他共に認めてさえいたほど。だからこそ、あの日以来、ずっと強くあろうとした透夜は、見るからに動揺してる。私の腕を掴んでいる手に力がこもった。
 「優、帰るぞ」
 そう促がすように言って、透夜は先に歩き出した。腕をつかまれたままだから、引っ張られてついていく羽目になる。彼の横を通り過ぎるときも透夜はまっすぐ前だけを見ていて無言だった。
 だから、そのすぐ後、私が通り過ぎるとき ――― 。
 ほんの一瞬。空いている手を彼が握って渡したものがあることに、透夜は気づかなかった。
 『俺のケー番。電話して』
 透夜に聞こえないよう、囁かれた言葉。
 渡された紙を思わずポケットに入れたのは、きっと私も動揺してたからで、他意はなかった。







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