比べたくないもの


 ふっと途切れたピアノの音に気づいて、視線を向けた。鍵盤に手を置いたまま、厳しい目つきで見てくるリクさんに気づいて、息を呑む。ごめんなさい、と先手を取って謝った。返ってきたのは、重苦しい溜息。
 「音がどうこういう問題じゃないね。心が持っていかれてしまってるよ。どうしたの、珍しい」
 怒られると思っていただけに、優しい言葉は心に温かく入り込んでくる。広げていた楽譜を閉じて置いてから、リクさんに向き合う。
 「ピアノ奏者でかいりって名前のひと、知ってます?」
 音楽に詳しい彼だから、知ってるかもと思って訊いてみると、意外にも凄くびっくりした顔で青い目を瞬かせた。その驚きように、戸惑う。困惑して眉を顰めると、リクさんは椅子から立ち上がって部屋の隅にある棚に向かって行った。
 「実は、君の伴奏したいってもちかけられていたんだ。僕が作るポップス系じゃなくて純粋なジャズ系なんだけどね。一応、事務所では僕が君のマネージャー兼プロデューサーになってるからさ。意見を求められてて」
 そう言いながら、なにやら分厚い茶色の封筒を取り出すと、それを持って戻ってきた。はい、と渡されて、中身を取り出す。数枚の書類と、ビデオテープと何枚かのCDが入っていた。書類には、先日ピアノコンサートで見た彼の写真が添付されている。じっと見入ってから気づいた。実際に会った時とは違う。写真を通してだと、あんなにそっくりだと感じていた気持ちが馬鹿馬鹿しく思えた。どこにも、似ているところを見つけられない。
 「優ちゃん?」
 声をかけられて、慌てて顔をあげる。リクさんは肩を竦めて、再びピアノの前に座った。
 「どうする? やってみる?」
 書類には、三日間。違う会場で行なう、と企画されている。プロの世界で有名になってきた駆け出しのピアノ奏者である「かいり」と、歌手としてトップに上り詰めてきている私のコラボレーション。ジャンルがジャズなのは、お互い違う畑で、ということだろうか。けど、私にとってジャズは ―― 。
 「リクさんは彼を見て、なにか感じました?」
 私の質問に、えっと彼は声を上げた。急に向けられた矛先に動揺しているのか、意味もなく鍵盤に手を置いてそわそわと動かしている。ぽんぽんっと弾かれるように引く音に、好奇心が疼く。
 「リクさん?」
 促がすように名前を呼ぶと、諦めたように彼は言った。
 「……ピアノはうまいと思ったよ」
 ピアノの音にまぎれるように呟かれた言葉に思わず噴出しかけて、楽譜で顔を覆った。
 プロの奏者なんだから、上手いに決まってるのに。
 「他には?」
 「優ちゃん。笑いながら訊かれると、答え難いんだけど」
 不貞腐れた顔で言われて、ますます笑いたくなる。しょうがないなぁ、と嘆息して、リクさんは続けた。
 「うまいんだけどさ。それだけって感じがするんだよね。だから、すぐ君に話せなかったんだ。あんまり勧められないと思って」
 「うまい、だけ?」
 思わず繰り返す。そういえばコンサートで聴いたときは、あの雰囲気に呑まれて音に関しては耳に入ってこなかった。
 ふと、リクさんの顔を見て、カイのことが頭を過ぎった。彼は、ビデオを通してだけど、カイの演奏を聴いたと言っていた。だから。
 「あのっ、」
 「うん?」
 言いかけた言葉は、リクさんの優しい表情を見て、喉の奥に引っ掛かってしまった。訊けない。そんなこと ―― 訊けるわけない。
 演奏を比べてどうだったか、なんて。
 それがリクさんにとって、どんなに残酷なことか気づいて、慌てて首を振った。
 「少し、考えさせてください」
 そう言って、持っていた書類を封筒に入れなおして、無造作に置いていたバックの上に乗せた。そのまま立ち上がって、ピアノの側に向かう。
 さぁ、練習しましょう ―― 頭の中に渦巻いていた感情を全部追い出して、気合を入れながらそう言うと、リクさんもにっこりと笑って頷いてくれた。

 部屋の中に流れるCDの音を聞きながら、プロフィールが書かれている書類に視線を落とす。三歳の頃からピアノを習って、中学も高校も音楽学校。ピアノのコンクールでは優秀な成績を修めている。ドイツの有名な音楽大学に留学していた経験もあった。音楽一色に染まってる人生に、感心する。私も彼も、透夜だって、音楽に触れてはいたけど、ここまで一色じゃなかった。だけど、プロの奏者ともなればそういうものなのかもしれない。
 「あれ ―― ?」
 流れている音を聴くうちに、ふと違和感を覚えた。
 耳を澄ませて、集中してみる。暫くして、その違和感が確信になった。やっぱりだ。写真を見たときと同じ、コンサートのときに感じていた気持ちはすっかりなくなってる。あんなにそっくりだと感じていた想いは欠片も浮かばない。リクさんの言っていた意味がわかる。確かに技術的には上手いのかもしれないけど、心に何も響いてこない。するりと表面を撫でていくだけの風みたいなもの。なんだか、あのときあんなにも動揺していたことが馬鹿馬鹿しくなった。だけど、どうして彼のことを知っていたんだろう。
 繋がりは、ピアノ。
 そう考えた途端、我慢できなくなって座っていた椅子から立ち上がり、クローゼットに向かった。押し開いて、光の当たらない片隅に無造作に置いていた籐木で作られて箱を取り出す。留め金がついたその箱は、中身を入れてからずっと開けたことはなかった。こうして取り出すことも。留め金に手を伸ばそうとして、その手が小さく震えていることに気づいた。
 不安と、恐怖と、―― 悲しみ。
 押し寄せてくるその感情に耐えられるかわからない。
『 ――― 優ちゃん』
 ふと聴こえてきた声に、息を呑む。大丈夫、と歌う前にいつも笑顔を見せて励ましてくれる姿を思い出して、温かいものが溢れてくるのを感じる。
『優、逃げるなよ』
 同時にからかうような、その声もよみがえってくる。灰色の目を煌かせて、その口調とは裏腹に真剣な表情にいつだって見惚れてた。
 震えていた手はいつの間にか止まっていて、躊躇っていた留め金をゆっくりと外す。かちり、と小さく音が鳴って、蓋が開いた。予想していたような不安も恐怖も、悲しみにも襲われるようなこともなく、中身を見た瞬間に一気に懐かしさが溢れてきた。
 フィルムを使い切ったのに、現像していないカメラはきっとたくさんの二人の姿が写ってる。同じ日付の違う映画名が書かれた数枚のチケットは一日中映画館にいよう計画を実行したから。ふたりで描いた落書きノート。数え切れない思い出が詰まった物は、こうして再び開かれるのをひっそりと待っていたように変わりなく置かれてあった。その中で丁寧に折り畳まれて入っていた封筒を取り上げる。茶色で真新しかったはずの封筒はすっかり色褪せてしまっていた。広げて、中身を取り出すと数枚の楽譜が出てきた。
 音符が書き込まれている楽譜の、タイトル。見慣れた文字でほんの少し乱雑に書かれているそれを指でそっとなぞった。
 『Last Years Love -海に還る-』
 最初に見たときは、らしくないタイトルだと笑った。おまえにやるよ、と言われたときは、不覚にも泣いてしまった。おまえだけの曲だよ、と囁かれたときには馬鹿じゃないのと笑ってあげた。そこに込められた意図をわからないわけない。
 忘れろ、とも。思い出すな、とも言わなかった彼の想いが込められている。
 この楽譜は貰ってからずっと大切に入れておいたけど、1度見た楽譜は忘れない彼には何度も強請って弾いてもらった。だから、今も容易くその曲は思い出せる。確かに曲は同じ ―― だけど。音は。
 思い浮かんだことを振り払いたくて、首を振る。
 比べたくなんかない。私にとって、この曲はたったひとつのもの。比べるものがあるなんて、思いたくない。違う。あれは、違う。
 やっと前に進み始めたと感じていた気持ちが立ち止まってしまいそうで、縋るようにぎゅっと楽譜を抱き締めた。
 唐突にコンコン、とドアをノックする音が響いて、返事をする。ドアが開いて、顔を覗かせたのは、透夜だった。
 「入ってもいいか?」
 「うん。もちろん、どうぞ」
 促がしながら、側に置いてあったリモコンを取ってコンポの電源を切る。はい、と渡されたピンクのマグカップは私のもので、透夜は反対の手に黒いマグカップを持っていた。その中身を見て、苦笑する。
 「おばさんが渡してくれってさ。ホットココアなんて久しぶりだよなー」
 そう言いながら、透夜は無造作に傍に座った。
 絨毯の上、開いたままの箱を見つけて、わずかに身体が強張ったのが伝わってきた。こんなに大切にしてあるのが何かなんて、透夜は一目でわかってしまったんだろう。二人の間に流れる緊張感を解きたくて、冗談交じりに言う。
 「封印、解いちゃった」
 「なんで……」
 苦しげに顔を歪める透夜の頭をぽんっと軽く叩く。
 自分よりも、私の気持ちを考えているとわかって、その優しさに自然と頬が緩んだ。
 「そんな顔しないで。過去に浸りたいとかそういう後ろ向きな気持ちじゃないから。ただちょっと、知りたいことがあっただけ」
 ふーん、と興味のない顔をしながら、わずかにほっとしたような表情を浮かべたのは見逃さなかった。
 いつだって気にかけてくれている。それを負担に感じさせないように。そういう優しいところに似ている部分を見つけて、ほんの少し胸の奥が痛んだ。だけど苦しいと思うより、嬉しいと感じる気持ちが大きい。
 箱の中の物を手に取り、懐かしそうに眺めている透夜の横顔を見ているうちに、心に留めていることを話したくなって口を開いた。
 「時々ね……」
 「優?」
 「……本当に時々なんだけど、考えちゃうの。カイが生きていたらって。そんなの、悲しくなるだけだってわかってる。わかってても、浮かんじゃう。そしたら、リクさんに悪いなって。比べようとしてるわけでもないし、ふたりとも違うから、比べられない。だけど、悪いなって思うの」
 そっか、と小さく頷いて、透夜はくしゃりと髪をかきまぜる。慰めるような、優しい仕草に、苦笑が零れる。
 「少なくとも、悪いって思うことはさ。リクさんを恋愛対象として見てるってことだろ?」
 「そうなのかな……?」
 「ああ。だってさ。俺には思わないだろ、そんなふうに」
 言われて、改めてそういえば、と納得してしまった。誰よりも、そっくりのはずで。面影がちらつくはずなのに。透夜といても、カイの姿を思い出すことはない。勿論、話題として出るのは別にして。彼と二人っきりでいても、悪いとさえ思わなかった。
 「まぁさ。そんなに急ぐなよ」
 「えっ?」
 「アニキを忘れろ、とか。思い出すななんて誰も言ってないんだから。むしろ、そんなことになったら、アニキの奴。根性で枕元に立っちまうぜ」
 からかい交じりの言葉に、思わず笑ってしまった。そうなってでも会いにきてくれたら本当は嬉しいけれど ―― そんな気持ちは億尾にも出さずに、そうだね、と頷いた。
 そんなに急がなくてもいい。もう少し。まだ、もう少し気持ちが追いついてから考えたい。そう思いながらも脳裏に浮かぶ面影に、その時が近づいているような予感がした。








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