練習室に入って、ハッと足を止めた。
視線の先 ―― 、鍵盤の蓋のうえでリクさんが眠っているのが見えた。音を立てないように扉を閉めて、そっと歩み寄る。窓から入り込んでくる日差しが、リクさんの色素の薄い髪を金色に染め上げている。触れたくなって、手を伸ばした。ふわふわ。天然パーマだと言っていた。腕から半分だけ見えている頬は男性にしては柔らかな曲線を描いている。影を落としている長い睫。小さな鼻。薄い、唇。穏やかな寝顔は見ているだけで胸を締め付けられた。その痛みに我に返って、伸ばしていた手を肩に置く。
「リクさん?」
「 ―― っ、……?」
聞こえた言葉に驚いて咄嗟に離そうとした手は、強い力で掴まれた。ぎゅっと握られた手を引き寄せられる。ぼんやりと開いている青い目。まるで吸い込まれそうなその瞳から逸らせなくなって、そのままふわりと軽く口づけられた。重なり合う唇から温もりが伝わってくる。
「って、わっ、あっ! ごめんっ!」
いきなり突き放されるように押しのけられた。
見る見るうちに真っ赤になって動揺している姿は可愛らしくて、思わず笑ってしまう。怒るよりも、胸には温かいものが広がっていた。
「……もしかして寝ぼけてました?」
からかうように訊くと、図星だったらしく、視線を彷徨わせる。やがて、諦めたように息をついて、ごめん、と頭を下げられた。
「こんなはずじゃなかったんだけど……」
じゃあ、どういうつもりだったんだろう。
そんな意地悪な気持ちが膨れ上がってくる。嫌とか気持ち悪いとか思うよりも、嬉しい気持ちが胸の奥で燻っているのを確かに感じている。
「……本当に、ごめん」
謝罪を繰り返すリクさんに首を振るものの、項垂れたように彼は頭を下げていて、その真剣さに苦い想いがこみあげてきた。いつだって、我慢させて気を遣わせているのは ―― 。
リクさんの肩に手を置くと、彼はそれに気づいて顔をあげた。優しさのこもる、青い瞳を見つめ返す。
とても大切に想ってくれているのがわかる。リクさんはいつだって、自分の心よりも私のことを最優先に考えてくれる。その優しさが臆病な心をそっと、包んでくれた。
「謝らないで。大丈夫です」
「優ちゃん?」
彼の肩に額をくっつけ、顔を見られないようにして呟く。
「…………嫌じゃなかったから」
口にした途端、頬が熱くなるのを感じた。
それだけでも、胸がどきどきと早鐘のように鳴っているのがわかる。だけど、今は、まだ。そう言うのが精一杯で、リクさんに抱きつくこともできない。以前のように、想いのまま。感じたまま、素直に態度に出して、大好きだと突っ走れない ―― 。でも、まるでなにもかもわかってるかのように、リクさんは抱き締めることもなく、ただ優しく私の髪を撫でる。
有難う、と不意に聞こえてきた囁きに驚いて、顔をあげた。
「少しずつでいいんだ。僕に慣れてくれれば、それで」
素直な告白に思わず頬が緩んでしまう。控えめなんだか、強引なのかわからないなぁ、と呆れるところもあるけれど、嬉しいという気持ちを感じているのは、もう誤魔化しようもなく。
もしもいつか、おまえが――。
先日、箱から取り出した楽譜を机のうえで眺めながら、ふとこの曲ができたときにふたりで海に行ったときのことを思い出していた。
あのとき。
ほんとうは、かろうじてカイの言葉は聞こえてきていた。
それでも聞こえなかったフリをした。どう返せばいいのか、あの頃のまだ幼かった私にはわからなかった。だけど彼は彼で、繰り返し口にできるほど強くはないと、それはなんとなくわかった。だから残酷にも聞こえなかったフリをした。ただ、その言葉を口にされたことが悔しくて、意趣返しだと思ってしまった。
『もしもいつか、おまえが他のやつを好きになったとしても』
そう言った言葉の続きは本当に、波の音に消されて聞き取れなかった。
『俺は、おまえを――』
許す?
そんな傲慢なことをカイが言うとは思えない。彼の性格がたとえ傲慢なものに見えたとしても、私には優しくて、どんなことより優先して私のことを考えてくれていた。だからこそ、最期まで傍にいることを許してくれたのだから。
どんなに知りたくても、もう二度と聞き返すことはできない。
楽譜のうえに、こてりと顔を横向きにのせる。
目を閉じると、波音に混じっていつも弾いてくれていたこの曲が流れてくるような気がした。
ぎゅっと胸が痛む。
こんなふうに、苦しいのは。
誤魔化しようがないほど、彼を――リクさんを好きだと自覚してしまったからだ。
触れた唇を自らの指でそっと、たどる。まだあの瞬間の温もりが忘れられないでいる。
リクさんが好き――。
そう思うのに、一方ではカイに逢いたいと思ってしまう。
胸の痛みを自覚するほどに、どうすればいいのかわからなくなっていた。
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