どんなに似ていても、

 「なんで、電話くれなかった?」
 不機嫌そうに眉を顰めて訊かれて、そういえば携帯電話の番号をもらってたんだとこの瞬間に思い出した。もっとも覚えていたとしても、きっとかけなかったはずだと思うと、謝る気にもなれない。
 鍵盤に手を置いたまま、見つめてくる瞳は不機嫌な口調とは違って、愉しげな光が揺らめいていた。それがわかって面白がってることがわかる。
 結局は私が考える前に、事務所側が利益を望んで受けてほしいと強く押してきて、リクさんも考えた結果としてはプラスにはなってもマイナスにはならないからということで納得し、断る理由がなかった――というより、むしろ気にかかっていた私は了承した。
 まずは、本人同士とピアノ奏者―かいり側のスタッフとこちらのスタッフ、開催する会場側のスタッフの顔合わせがあって、今はスタッフ達の話し合いが続いている。
 リクさんも状況のすべてを知っておく必要があるからとスタッフ側に参加していて、私とかいりはピアノがある控え室で曲の打ち合わせをしていた。
「一方的に渡されただけで、するなんて言ってない」
「じゃあ、優は俺のこと気にならないんだ?」
「勝手に呼び捨てにしないで」
「篠原さん、気にならない?」
 くすくすと愉しげに言う顔は、本気の欠片もない。
 確かに髪型も、彼の服のセンスも、ピアノを弾くときの癖もそっくり。顔形は違うのに笑い方も似ていて、そう思うほど苛立ちが募る。悔しくて、悲しくて息苦しさで、溺れそうになる。
 手に持っていた譜面に視線を落として、口を開く。
 なにより、気になっていたこと――。
「……あの曲、タイトルをどうして知ってるの?」
「あぁ、これ」
 そう言って、コンサートで弾いた曲を奏で始める。流れていく曲は、思い出の中に刻まれているものと同じ。それなのに。

「やめて!」
 思わず、叫んでいた。
 曲が途切れる。

「それはっ、私と彼の曲よ! あなたがいくら弾いても音が違うのっ。彼の曲を汚さないで!」
 驚いたように私を見ている彼を睨みつけて、募り続けていた苛立ちをぶつける。
 違う音でも同じ曲を聴いていたら、塗り替えられてしまう。彼の弾く曲は二度と聴けないのに。大好きだった音は、二度と戻らないのに。失いたくない。忘れたくない。
 ふと、彼の手が伸ばされて、気がついた瞬間には腕の中に抱き締められていた。
「……っ、」
「落ち着けよ」
 抵抗しようとする気持ちを見透かしたように耳元で囁かれる。
 ぞくりと肌が粟立ったのは、その低い声が――。
 言葉にならない気持ちが涙になって溢れてくる。いやだ。なんで。そんな言葉だけが頭の中を巡っていく。
「なんで……」
「……会ったことがあるんだ。橘カイに」
 ハッと息を呑む。
 彼の胸を押して距離を取り、顔をあげる。見下ろしてくる黒い瞳は、真剣な光を湛えていた。初めて見るその眼差しは嘘じゃないとわかる。

「ピアノの大会で。優勝するためにピアノ漬けだった俺の夢を圧倒的な実力の差を見せつけて奪っていった。その後すぐ、あいつはプロも目指さずにあっさり辞めてさ。許せなかったんだ、俺は」
 才能があるのに。
 努力だけで補えないものを持っているのに。それを俺達に見せつけただけで、あっさりと辞めてしまえることが許せなかった。

「それはっ……」
 かいりの言葉に怒りが沸き立ってくる。
 違う。
 カイは、彼だってピアノを弾くことがすべてだった。未来に生きられない彼が絶望を感じずにいられたのは、ピアノがあったからだ。もしも、手が動かせたなら。身体が自由に動かせたなら、弾き続けた。プロを目指した。子どもの頃からの夢だったと知ってる。
 それを諦めなくちゃならなかったとき、カイは苦しんだ。その悲しみを、怒りを、やりきれなさを目の前で見てきた。
 『あっさり辞めた』、そんなのは何も知らないかいりの勝手な思い込みだ。
 睨みつけると、彼は苦笑してなにかを思い出すように瞼を伏せる。
「――わかってる。怒りをぶつけに行った先で、橘カイがたまたま、この曲を弾いてたんだ。恋人のための曲だと教えてくれたよ。そうして、事情も話してくれた」
 恋人のため、――たった一言が胸をざわめかせる。
 嬉しくて。そう、いつだってカイが私のことを『恋人』だと言ってくれたとき嬉しくて、幸せになれた。惜しみなく注がれていた彼の、想い。
「話してみて、あいつの弾くピアノだけじゃなく、俺は橘カイという人間にも惹かれたんだ。自分の命が短いことを知っているのに、諦めじゃなくて、尽きるまで生きていこうっていう芯の強さが伝わってきてさ」
 カイの姿が思い浮かぶ。
 命が短いと知って、私から離れようとした。傍にいても私を傷つけるだけだと。離れようとした手をぎゅっと握りしめたのは私。傷ついても、最後まで傍にいる。カイの目が閉じられる瞬間までその目を見つめ続けていたいと思った。離れられなかったのは、私。
 カイはそう泣きじゃくる私の我が儘をすべて受け止めてくれた。悲しみも苦しみも、互いに感じている胸の痛みも。
 すべてを呑み込んだ笑顔で。
『しょーがないなぁ。泣き虫』
 そう苦笑して、一緒にいることを選んでくれた。もう二度と、離れようとか放そうとか言い出さないことを誓ってくれた。ふたりでいるんだから、明るく強く生きていこう。できるだけ、笑って過ごそう。
 ――最期まで。
「俺にはそんなのなかったから羨ましくて、憧れた。二度と聴くことができない橘カイのあの音も、真似すれば近づけるんじゃないかって思ったんだ。けど、行き詰って。ふと恋人のことを思い出した。会って、あいつの話をもっと知って、そうすればより完成するんじゃないかってね。まさか、歌手の篠原優だとは思わなかったけど」
 強い痛みを感じて肩に視線を向けると、彼の手に掴まれていた。顔を上げると、黒い瞳には狂気とも取れるほど危険な光が宿っていた。
 思わず、息を呑む。
 目を逸らせない。 
 恐怖を感じたとき、必ず助けてくれた存在はもう、今はいない。いつもどうしてってタイミングで現れて、手を引っ張ってくれたひとはもう――。
 その事実を確かめるように、ぎゅっと手を握りしめる。

「……離して」
「俺と付き合ってよ」
「冗談やめて。カイを真似してるだけのひとに心が揺れるわけないでしょ!」

 睨みつけて言えば、彼の目に複雑な光が宿った。迷い、怯え、恐怖。咄嗟につかみ取れた感情は、どれも強気な態度とは思えないものばかり。
 私に気づかれたくないのか、覆い隠すように目を細め、顔を近づけてくる。
「おまえだって、――橘カイを失いたくないだろ?」
 耳元で囁かれる言葉は、ひどく現実感のない言葉だ。
 だって、カイは。
 動揺したのは、彼の低い声が真剣なときにカイが話す声にあまりにも似ていて。
 ずっと思ってた。
 似ていてもいいって。
 たとえば、本人じゃなくてもいいから、偽物でもいいからもう一度、カイの顔を見たい。彼の声を聞きたい。
 見透かしたように現れた存在は、思ったよりも。

 ――失いたくないだろ?

 日が過ぎていく中で、思い出にしか現れない彼の姿は、失われていくしかないのに――。







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