幼馴染みの位置。

 一度だけ。

 アニキがやがては死んでしまう病気だと知ってから世界を憎んで、親を呪って、治せない医者の全てを許せないと思って、それでも仕方ないんだと諦めて受け入れたときから、絶対にアニキに負担をかけるようなことはしない、困らせるようなことは言わない。イイ弟でよかった。お前が家族でよかった、少しでもそう思ってもらえるように一日一日を過ごそうと誓った。そう誓った時から一度だけ、アニキを責める言葉を吐いたことがある。

 ――なんで。
 どうして、死ぬとわかっていながら優と付き合い続けるのか。
 やがてどちらも傷つくことになる。特に優は――ずっとアニキを抱えていかなくちゃならなくなるじゃないか。

 そのとき、初めて。
 物心ついたときから、いや。きっと俺は生れ落ちてアニキを見た瞬間から大好きになって、才能も人望もなんでも完璧に揃っていることに多少の羨望はあったけれど、いつだって、俺を親友のように扱い、家族として大事にしていてくれたことが伝わっていたから、アニキを悲しませるようなことなんて言ったことがなかったのに。俺の、どんな我儘も、「しょうがねぇな、おまえは」そう言ってどこか楽しむように笑うアニキが。
 初めて、口元を歪めて。
 今にも泣き出しそうな顔をした。病気でどんなに苦しんでも、飄々とした顔で、なんでもないというように−もちろん、そんなわけないが−闘っていたアニキが、初めて。

 すぐに、自分を滅茶苦茶に切り刻んでやりたい気分になりながら、「ごめん」、と謝った。
 俺の顔を見たアニキはすぐに呆れたように言う。

「おまえは悪くねーよ。親父にもそう言われた。おふくろは優の味方だったけどな」
「かーさんが?」
「ああ。優の覚悟を聞いたおふくろは、『だったら、最期まで傍にいなさい。カイを愛して愛し抜いて、その代わり、カイがいなくても生きていく強さを身につけなさい』って言われたってさ」
 母さんらしい、と俺とアニキは笑った。
 今もまだ、母さんはアニキの病気を治す方法を諦めてはいない。叔父さんをせっついて、いろんなコネを使って、病気の最先端の医療を探してる。健康にいいといわれるあらゆるものを手に入れてアニキに食べさせてる。どんなに不味そうなものでも、嫌そうな顔ひとつせず、付き合うアニキは正直、スゴイ。
「……優が俺の傍にいるって泣きじゃくって訴えてきたとき。それでも、俺はあいつの手を放すことを選んだんだよ、ほんとうは」

 ため息混じりに言うアニキの目に、一瞬だけ暗い影が過ぎる。それを見たとき、俺はふと思った。
 命という未来を失くし、ピアノという夢を手放し、優の愛と別れたら、アニキにはなにが残るんだろう。

「俺が手を放したら、あいつ。死ぬって言うんだ。でも、最期まで傍にいることができたら、俺がいなくても、生きていけるって言うんだぜ。無茶苦茶だよな」
 優らしい、と俺とアニキはまた、笑った。
「優やおふくろの言葉聞いてたらさ。俺ができるのは、俺が死んでからも、優が幸せに生きていけるよう導くことだと思ったんだ。それには、傍にいて、愛して愛し抜く必要があるんだよ」
 愛することを忘れないように。
 愛される幸せを身体に、心に刻みこんで。
 俺じゃない誰かと、愛し合うことができるように。
「アニキはそれで……」
 それでいいのか、と言いたかった言葉は、甘い熱を瞳に宿し、恐らく寝室で寝ているだろう優に顔を向けたアニキの姿に呑み込んでしまう。
「あいつが……、優が幸せなら、俺も幸せなんだ。どんな形であろうとも」
 自分に言い聞かせるようなものでもなく、とても自然な。心からそう思っている口ぶりで言われて、それ以上の言葉は必要ないような気がした。

 ――最近、リクが元気ないんだよねー。困ったもんだ。
 独り言のように呟きながら、実際は俺の顔をちらりちらりと見ながらのそれは、訴えていることが明らかで。俺が裏にある含みを間違えようもなく汲み取れることもわかっている彼方さんは本当に、イイ性格をしている。そういうところはまったく、アニキそっくりだ。
 結局のところ、リクさんの調子イコール、優。
 優の要因は、恐らく、あのコンサートで見た男。今度は、仕事で共演すると聞いた。
 アニキを真似た姿。最初に見たときは憤りを感じた。公の場じゃなくて、優がいなかったら、ふざけんなって殴ってやりたかった。
 もっとも、時間が経過するにつれて、あんなものは気にするほどでもないと思うようになった。所詮は、造られたマガイもので、動揺するだけアニキを貶めるようなものだと気づいたから。
 優は。あいつも、それはわかっていると思う。
 だけど、かつて好きだった。愛して、愛し抜いたアニキに似た男が現れたら。
 混乱しないわけがない。
 弟である俺でさえ、アニキに似た背格好の奴がいたら、似たあの低い声を聞いたら、つい振り返ってしまう。振り向いて、探してしまう。今も、まだ。
(……なんで、あんな奴との仕事なんか引き受けるんだよ。)
 恐らく、確かめたったんだろうけど。
 答えはわかっているものの、つい零れてしまう苛立ち。
 無鉄砲なところは相変わらずだ。アニキを喪ってしばらくは、慎重になっていたはずなのに、この数年で再び、あの頃の性格が戻ってきてしまった。それはきっと、間違えようもなくリクさんの影響で、喜んでいいことだとは思う。
 少し、寂しく感じてしまうけど。
 アニキと約束をした。前を向いて歩いていく。もし、優に好きな男が現れたら、背中を押してやれと、そう言われた。

「――それが幼馴染であるおまえの役割だ」
 なんだよ、と俺は拗ねるように唇を尖らせる。
「なんだって、なんだよ」
「俺が優を好きになるかもしんないだろ。今はお互い、有り得ないとしても」
 俺にとって優は言われた通り、幼馴染−キョウダイ。家族。大事な身内。そんな気持ちしかないけど。どうなるかなんてわからない。
 その言葉に、アニキはハッと鼻で笑う。ひどく面白くない冗談を聞かされたように。呆れた顔で、一刀両断。
「おまえさんでは無理だっての」
「だから、なんでだよ?」
「あいつは、俺に愛されてんだぜ。その弟なんて、お手軽な恋愛はしねーよ。もっと、でっかい愛じゃないとあいつの心には響かねーだろうな」
 でっかい愛って、どんなんだ、と抽象的な言葉に今度は俺が呆れた。
 さぁな。アニキは笑って答えなかったけど、多分。想像したくはなかったんだろう。他の誰かと恋愛する優の姿を。
「――透夜」
 ふと、真剣な灰褐色の瞳が注がれる。それまでの軽口を叩き合う空気を裂くように貫いてくる視線に、思わず緊張感が走った。
「優を俺に縛り付けるんじゃねぇよ」
「アニキ……」
「いい男はな、引き際もかっこよく決めるもんだ。わかってるだろ」

 ――わかってるだろ。

 アニキのあの言葉がなかったら、俺は優のために背中を押すことはしなかったかもしれない。みっともなく、優に執着して、ふたりでアニキとの思い出を引き摺って。リクさんから引き離していた。幼馴染の位置を汚していたかもしれない。けど、約束したんだ。
 前に進んでいく。
 優の背中を押す。
 だからこそ、優のことにあまり踏み込まないように距離を測って接してる。幼馴染の、位置で。

「……あー。けど、これはどう見ても」
 目の前に突きつけられた光景に、思わず愚痴と溜息が零れ落ちる。
 ギター演奏者として助っ人にはいることになり、スタジオに入って感じた違和感。
 距離を取ろうとして失敗し、あやふやな態度をする優と、その隙に押し入ろうとするかいり。間に入りきれず、見守るしかないリクさん。妙な三角関係ではあるけど、かいりは関係ない。実際のところ――。

「あっ、透夜!」
 ドアに寄りかかって遠目で見ていた俺に気づいて、優が駆け寄ってくる。そのどこかほっと安堵した顔に、苦笑が零れた。傍まできた彼女の頭を軽く小突く。
「おまえ、なにやってんだよ」
 俺の言葉の意味を正確に掴む優は、困惑したように笑う。まったくもって、らしくない顔。
「……確かめたかったんだ」
 予想した通りの答えに、呆れてしまった。本当に。
「無鉄砲なんだよ」
「久しぶりに聞いた、その言葉」
 少し泣きそうな表情を見せる優に、胸が痛む。その痛みを誤魔化すように、丁度こっちに歩いてくるリクさんに視線を向ける。
「久しぶりにおまえらしさが戻ってて、いいと思うけどな。俺は。まぁ、それで墓穴掘ってりゃ意味ねー……」
 ふと、優から強い視線を感じて目を向ける。じっ、と何かを訴えかけてくる瞳を見つめ返す。あの頃よりも、ずっと大人びた顔だけど、同じように自信のある表情。
 それが意味することに気づいて、もう呆れるしかなかった。
「……リクさんがいるから、か」
「うん。大丈夫だと思ったの」
「で?」
 丁度問いかけたろところで、リクさんが傍までくる。
「優ちゃん、かいりくんと曲の最終チェックよろしく。透夜くんは今までの説明するよ」
 資料を受け取りながら、俺がうなずくと、優も「はい!」と返事をしてピアノがある場所にユータンする。その寸前、俺に視線を戻した優がにっこり笑う。
 『だいじょうぶ』、そう読み取れる笑顔で。
 その笑顔に心配していた気持ちがゆるりと解けていく。あの強さは、きっとアニキとのことで培ってきたものだろう。まだアニキが病気だと知る前のあいつが泣き虫だったことを知っているから。
「優ちゃん、なんか言ってた?」
 話しかけてきたため息混じりの声に視線を向ける。同じように壁に背中を預けて、すっかり自信のない表情を浮かべる姿は、優を歌手にしようとした奴とは思えない。
「なに? もとSeezのリクさまともあろうひとが自信なくしてんの?」
「仕事に関しては誰にも負けるつもりはないよ。もちろん、優ちゃんのことも譲れないとは思ってる。けどさ。あのかいりって奴、君のお兄さんに似てるだろ。優ちゃんと仲良くしてるとこ見てると、仕事って割り切ってても複雑なんだよねー……」
 ねーって、言われても。
 弱気な言葉に呆れかけて、気づいた。あの男がアニキに似ているってこと――。
「なんだ。気づいてたんだ?」
「ビデオ通して一度観ただけでも、あの強烈な印象は忘れられないよ。ライバルでもあるわけだし」
 アニキをライバル呼びできる男に、呆れ半分。やっぱり優が好きになっただけあるかも、と賞賛少し。そんな気持ちを苦笑いで隠しながら、俺はピアノを弾いてるかいりに目線を向ける。
「心配ないだろ。優はマガイモノに惹かれない」
 ほんとうの――本物の愛を知ってるから。そういえるだけの愛情を受けてきた。見分けがつかないはずないんだ。
 それに、あいつの笑顔。
 久しぶりに見たような気がする。泣きたい気持ちを押し殺すための笑顔じゃなくて、心から浮かんでくるもの。
「……あんた、もっと自信持ったら?」
 伴奏に合わせて歌っている優の姿を見ながら、隣で溜息をつく男に言う。仕事に持ってるほどじゃなくていいけどさ、と胸の内で付け加える。
「君ほど、優ちゃんのこと知ってるわけじゃないんだよ」
 拗ねるような声は、嫉妬が入り混じっている。
 それに気づいて、本当に妬いてるのは、と本音が零れそうになり、慌てて飲み込む。それはあくまで、同志が離れていく寂しさのようなものだ。
「付き合ってきた年月が違うっての」思わず言った言葉が微妙なニュアンスを含んでいることに気づいて、続ける。「優とは幼馴染なんだぜ」すんなりそう出てきた言葉に、なんとなくアニキが言っていたことがわかった気がした。
 ああ、なんだ。と笑ってしまった俺に、リクさんが怪訝な顔を向ける。
「相手を知りたいって思うことから恋愛って始まるもんだよな」
 いまさら、俺はあいつのことを知りたいなんて思わない。何もかも知っているわけじゃないにしても。そこんとこを省略したお手軽な恋愛なんて始まるわけないんだ。
 ――最初から。

『背中を押してやれ』
 それが幼馴染である、おまえの役割だ。

 アニキのあの言葉は俺への最後の望みで、願いで優を導くための布石だったんだと今、わかった。ほんとうに、アニキには敵わない。
「確かめたかったんだよ、あいつは」
「なにを?」
 自分の気持ちを、だろ。
 言いかけて呑み込んだのは、俺の口から教えることじゃないと思ったからで、代わりに肩を竦めて話の間に目を通していた楽譜を奏でるべく、ドアから離れて準備を始めることにした。







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