倒れたんだってさ。
椅子に座って休憩していると、透夜がギターを片手に傍に来た。何のことを言われているのかわからず、「えっ?」と聞き返す。顔を上向けると、溜息交じりの言葉が降ってくる。
「みんなさ、お前には言うなってリクさんから口止めされたらしい。大事なコンサート前にうつったら大変だろ?」
「なにが?」
「風邪だよ。リクさん、事務所で熱出して倒れたらしいぜ」
一気に血の気が引くのがわかった。
今日に限って、周囲がよそよそしく感じたのはそれが理由だったんだと納得する。ここにいないのは、Seezとしての予定が入ったからだって聞かされていたのに。
倒れた、という言葉の響きは嫌な感覚を引き寄せる。
「ただの、風邪だって。ほら、これ」
そう言って一枚のメモ用紙と小さなカードを差し出されて受け取る。中を確認すると、住所が書かれてあった。801号室。一度だけ聞いたことがあるリクさんの住所。
「カードがカギらしいぜ。響さんが貸してくれた」
でも、どうして。
驚いて思わず零れた疑問に、透夜は視線を逸らしてスタジオの真ん中に置いてあるピアノを見つめる。懐かしそうに目を細め、誇らしげな眼差しで。
「おまえの背中を押すことが俺の役割だから」
「透夜……」
「まっすぐぶつかっていく。俺は……俺たちはそんなおまえだからアニキを任せられたんだ」
ハッと息を呑む。
透夜の横顔が寂しく翳り、思い出す。カイの家族、そして私の両親も私たちが多くの時間を二人で過ごすことを何も言わず見守ってくれていた。本当は、できる限りカイの傍にいたかったはずなのに。寂しさや悲しみを押し殺して、私たちの意志を尊重してくれていた。
透夜の視線が私に向けられる。
「行って、ぶつかって自分の気持ちを確かめてこいよ」
「でも――」
「アニキを言い訳にしない。そう、約束しただろ」
まっすぐ見つめてくる目は、逃げることを許してくれない。
カイがいなくなっても、生きていく。ただ生きていくんじゃなくて、幸せになるための努力をする。それはカイ本人ともカイのお母さんともした約束。
渡されたカードキィをぎゅっと握る。
あの頃から時間が流れて年を重ね、社会を知って気持ちを押し殺したり、誤魔化したりすることを覚えた。だけど、あの頃の私だったら。もしも、今もカイが傍にいてくれたなら、私はきっと、躊躇わない。
「スタッフの連中には俺から言っといてやる」
私の目から決意を読み取ったらしい透夜は、にやりと笑みを浮かべた。
「透夜、大好き!」
お礼を込めて言いながら、側に置いておいたバッグを手に取って走り出す。
「篠原さんっ?!」
背後で慌てたような声が聞こえたけれど、振り向くことなくスタジオを飛び出した。
――なんで来ちゃうのさ。
寝室のベッドの上にいるリクさんはとても病人とは思えないほど不機嫌な顔つきをしていた。ついでに棘のある言葉を投げかけられる。
「プロ意識ないんじゃないの? わかってる? もうすぐコンサートなんだよ。僕は裏方だからいなくてもなんとかなるけど、君はメイン。うつってコンサートだめになって、準備してくれたスタッフの努力も無駄にして、チケット取ってくれてるファンまで失望させるなんて、プロ失格」
仕事に関してはいつも手厳しい。プロとしての自覚、誇り、礼儀作法。その全部をイチから教えてくれたリクさんの気持ちはわかってるし、まったくもってその通りだ。ここで謝っても、『僕に謝ってすむことじゃない』と冷たく返されるだけ。
今までの私ならきっと、素直に踵を返してた。ううん、それ以前に、リクさんの心配りに甘えて彼の部屋まで訪ねてきたりなんかしなかった。
――けど。
『無鉄砲なんだよ』
透夜の言葉が浮かぶ。
カイがどんなに私を突き放そうとしても、私は私の想いを貫いた。あの頃の私には、どんなことよりも譲れない気持ちがあったから。
「私は起こるかどうかわからない未来より、いま、この時が大切なんです」
「……え?」
不機嫌な顔だったのに、困惑したように見つめてくる。間接照明が照らし出す彼の顔はよく見ると、頬が赤く目が潤んでいて、病人には違いなかった。多分、熱も高くて上半身を起こしていることもつらいはず。
「薬は飲んだんですか?」
「優ちゃん……いいから、君はかえっ、」
「リクさんが、私の顔をもう一生見たくなくて、そしたらもちろん声だって聞きたくなくて、少しも好きって気持ちもなくて、それぐらい憎んでるっていうなら、帰って二度と会いません」
卑怯だとはわかってる。ずるいことも。
だけど、リクさんも私が心配して駆けつけてきたってわかるのに、追い返そうと棘のある言葉を投げつけてきた。もちろん、私を心配してとはいえ。それだって卑怯でずるい。
強情なひとには、相応の覚悟がいる。傷つけても、傷ついても、自分の気持ちに素直でいるための、覚悟。
「……そういう言い方は、ずるいよ」
帰れなんて、言えなくなるじゃん、とブツブツ言う声が聞こえて思わず噴き出してしまう。
不満一杯の『了承』に、リクさんが寝ているベッド脇にあった椅子に座って、彼の額に手を伸ばした。手のひらから伝わってくる熱は高い。
「何度でした?」
「数字見ると余計熱出しそうだから測ってない」
「薬は?」
「夕飯はかなたの奥さんがお粥を差し入れしてくれたから、さっき食べたよ」
「――薬は?」
逸らされる視線を追っていくと、サイドテーブルに開けた形跡のない薬袋が置いてあるのを見つけた。同じところにある水が入ったペットボトルの蓋もきっちりついている。
「……早く治す努力をしないひともプロ失格」
呆れてそう言うと、はぁと溜息が返ってきた。
「薬とかサプリメントとか、昔から苦手で……」
さっきまでの仕事には鬼のような態度を見せるリクさんの勢いは鳴りを潜め、困ったように笑う。そんな表情にさえ、愛おしさが募る。とくん、と高鳴る胸は正直過ぎて、少しだけ切ない気分になる。
「優ちゃん?」
呼びかけられて、意識を戻す。
誤魔化すように薬袋を開けて錠剤を取り出し、ペットボトルの蓋を開けた。
「じゃあ、目を閉じて。口を開けてて下さい」
「ええっ、い、いいよ。自分で飲め――っ?!」
リクさんが慌てたように首を振る姿を見て、その口に薬を放り込もうと思っていた考えを急遽変更し、私はそのまま自分の口に入れて素早く彼にキスをした。口移しで、薬を飲ませる。
喉が動いたところをうっすらと開いた目で確認して、唇を離した。
「はい、お口直しにどうぞ」
片手に持ったままだったペットボトルを差し出す。
「…………え?」
呆然とした表情で、リクさんは一言呟いた。
ここでなにもなかったような表情をしていたいのに、きっと正直な私の頬は赤く色づいている。だって、顔が熱いし。
それなのに、まだ信じられないといった顔で目を瞬かせ、不思議なものを見るように私に視線を向けてくる。
「熱があがりすぎて、へんな幻みたのかな……」
いやいや、まさか。
心の中で突っ込んで、思わず苦笑が零れる。やっぱり、反応が鈍いのは、熱が高いせいかもしれない。
持っていたペットボトルをサイドテーブルに置きなおして、まっすぐリクさんに向き合う。おもいきって口を開いた。無鉄砲だと呆れながらも、楽しげに言われていたあの頃のように、気持ちをありのまま伝えるために。自分らしく。
「私は――リクさんが好きです」
大きく目を見開き、今度こそリクさんは絶句する。
「だれかを好きになって、その気持ちをぶつけることに臆病になっていたんです。好きって気持ちを認めてしまったら、私……ほんとうにカイのことを忘れてしまうような気がして」
リクさんへの想いを確かなものにしてしまったら、カイとのことが終わってしまう。カイへの想いとか、思い出とかすべてがリクさんとのものになって、忘れて、失っていくことが怖くてたまらなかった。
「……じゃあ、どうして」
衝撃が緩んだのか、リクさんが問いかけてくる。瞳には切なげな光が宿っていた。私のために慎重になってくれていることが伝わってきて、胸が痛む。好きだという言葉も、想いもずっと、堪えてきてくれていた。
寝ぼけてキスをして、その後でごめんと謝ってくれたことを思い出す。
あのときの、リクさんの傷ついた顔。あんな顔を好きな人にさせるのは間違ってる。少しづつ慣れてくれればいいと言ってくれたけど、せめて自分の感情だけは素直にぶつけていきたい。
「それでも、私はリクさんを好きだって気持ちから逃げたくないんです。私らしく、ぶつかっていきたい」
――幸せになるための努力をする。
そのためにも。
急に引き寄せられ、ふわりと抱きしめられた。
「リ、リクさん?!」
「……少し自信失くしてたんだ。かいりくんと君を見てたら、まるで」
「彼とカイは違います。どんなに似せようとしても――」
自信のないリクさんの弱気の声に、はっきりと否定してみせる。けど、最後まではまだ口にできなくて、代わりにぎゅっとリクさんを抱き締める。
「ゆ、優ちゃん?」
「信じてください。私、リクさんが好きです」
抱き締め合うお互いのぬくもりから、少しでもこの想いが伝わればいいと願いながら、心を込めて告げる。
ありがとう――と耳元で囁かれた言葉が嬉しくて、どうしようもなく、涙が溢れてきた。
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