幸い、リクさんの風邪は悪化せずに、コンサート前に治って、私もうつることなく、予定は順調。リクさんとは進展はあったものの、もちろん公にはできないから、いつも通り。最もスタッフたちは公然の秘密としているみたいだし、私の中の気持ちも、告白してからはかなり変化があった。
「……なんか、変わったよな」
かいりが眉を顰めて、憎々しげに吐き捨ててくる。カイに似た雰囲気を纏って迫ってきていたのに、今の彼はそのまま、自身の表情と口調のようで、変わった自覚のある私はうん、と頷いてみせる。
「私の中では、最初からかいりがどうこういう問題じゃなかったの。実際は私とカイとリクさんの問題で、私自身の気持ちを確かめるために、かいりを利用させてもらったんだよ」
かいりが利用しようと近づいてきたから、逆に利用してしまった。
むかつく、と吐き捨てられる言葉に思わず笑ってしまう。
「かいりが行き詰ったのは、真似ているからだよ。自分の音を自分なりに引き出さないと、そこまでで終わっちゃうよ?」
歌と音。ジャンルは違うけど、同じ音楽を奏でる者だから、わかることもある。音楽だけに限らないけれど、所詮は真似たものに、その先は見つからない。
大事なことは、自分の想いを自分なりに表すること。どんなにカイの仕草や音を真似ようとしても、彼の想いまでも表現することなんてできないんだから。
「……そんなこと。わかってたんだけどさ」
鍵盤を適当に叩いていた指を止めて、彼はため息混じりに言った。
「俺のピアノで橘カイを越えられるなんて思えなかったんだ。真似をして似せようとすることはできても」
かいりの言葉が急にすとん、と胸に落ちてくる。ああ、そうだったんだ。なんだか納得してしまって、頬が緩んでいくのを感じる。そうだったんだ。
カイは忘れろとも、思い出すなとも言わなかった。彼がいちばん望んでいたのは、理解することだ。それを受け入れて、前に進む。頭だけでじゃなく、心でも納得するように。
「カイを越えることなんてできないよ」
「そりゃ、あのひとはスゴイ奴だったけどさ」
拗ねるように言うかいりの目には羨望が浮かんでいた。その眼差しに苦笑して否定する。
「そんなんじゃない。そんなんじゃなくて――カイは、もういないってこと」
追いつきたくても、追い抜けない。勝ちたくったって、勝負さえできない。会いたくても、声を聞きたくても。
どんなに――忘れたくなくても。失いたくなくても、もう。時間が流れるぶんだけ、忘れていくし、失われていく。いつまでも一緒になんて、いられない。その現実を怖がってちゃ、前に進めない。
かいりの横に座って、白い鍵盤に触れる。
「リクさんと歌を唄うって決めたとき、前に。幸せになるために前に進もうって思ってそう決めたの。けど、歌を唄うだけで幸せになんてなれない。私の場合は誰かを想って唄うことこそが幸せになるってことだった」
あの頃、カイを想って唄っているときが私が何よりも強く、幸せだと感じられていた瞬間だった。
「……今はリクさん?」
問いかけながら、かいりの指が鍵盤を叩いていく。伴奏とはいえない、単音だけのあの曲。本当のことを言ってしまえば。あの曲を弾きながら交わしたカイとの会話はまだ、覚えていても。カイの奏でた音はほとんど忘れてる。
そう、自覚してしまうことが怖かった。
「リクさんに好きって告白したときに、カイのことはちゃんと思い出になることができたんだと思う。忘れることを、失うことを不安だと感じなくなったから」
ふと、かいりが鍵盤を叩くことを止める。
視線を向けると、一度開きかけた口を閉ざし、躊躇うような表情を浮かべていることに気づく。彼が聞きたいことがなんとなくわかって、かいり、と促す。
「あんたは……いま、幸せか?」
リクさんの顔が浮かぶ。夢うつつにキスをして驚いていた表情。怒った顔。口移しのキスに呆然として、それから、有難うと嬉しそうに言ってくれた。抱き締められたときの、ぬくもり。
心から好きだと思える人が、私を好きだと言って傍にいてくれる。好きな人が傍にいる、それはとても――。
「――幸せだよ」
私の言葉にかいりが視線を向ける。溢れてくるその気持ちに、自然と頬が緩み微笑が浮かんで、見つめてくる彼の黒い瞳が眩しげに細まった。
「俺はそう言えるあんたがうらやましい」
苦笑混じりの呟きに、だいじょうぶだよ、と励ます。
「大丈夫。かいりも、自分の音を見つけられるよ。カイの真似じゃなくて」
「簡単に言うんだな」
「かんたんじゃないよ。けど、私たちは生きてるし。だからこそ、未来があるんだもの。だったら、自分の探してるものを見つけて、幸せになるために進むべき、でしょ」
ふっと、かいりが苦笑いを零す。
「義務?」
「そんなようなもの、かな。生きたくても、生きられなかったひとがいるもの。生きていける私たちは、せめて自分が幸せになるための努力くらいしなきゃ」
カイがくれた、愛。歌という夢。幸せになる、という約束。それを大切にして生きていくことが、カイの言っていた、これからも幸せだ、という言葉にきっと、続いていく。
「……俺、怖かったんだ。俺自身の音でなんかだれにも満足してもらえないだろうって。どんなに練習してても不安でたまらなくってさ。そんなとき、ふと思ったんだ」
――橘カイの、あの音ならって。
大会でだれもを、なにより俺自身を魅了した音。だからこそ、真似すれば。あの男になりきれば。もしそれで非難されてもそれは俺じゃないって逃げ道もできるって。
「なっさけねぇよな」
あんたはすぐ、見透かしたんだろうな。
自嘲混じりの呟きに、私はそうだね、とうなずく。どんなにカイを真似て近づいてきたって、かいりの瞳には迷いや怯え、恐怖の感情が垣間見えていたから。
その姿や仕草、声に想いが揺れても、胸の芯の部分を揺らすところまではいかなかった。それができたのは――。
鍵盤に置かれたままのかいりの右手に手を伸ばして触れる。
「あの曲、かいりにあげる。だから、弾いて。あなたの音で、私は歌うから」
「……リクさんを想って?」
からかうような口調に気づいて、重ねている手から彼の顔に視線を移す。口調と同じ、眉を上げたかいりの顔には皮肉げな表情が浮かんでいる。私は笑って。
「そこはご勘弁を」
最高の、コンサートにしたいから。
愛する人を想って歌うときが、私にとってはきっといちばんの歌になる。
そう言うと、かいりはなにか、憑き物が落ちたようなすっきりとした顔つきで、しかたねぇな、と笑った。
「んじゃあ、俺も俺の音探してがんばるよ。多少変になっても、あんたが――篠原さんがフォローしてくれ」
「そこは、お互い。プロでしょ」
堂々と言い放って、ふたり。顔を合わせて噴き出す。
ひとしきり笑った後、かいりは一度大きく深呼吸をすると鍵盤に指を乗せ、ゆっくりと弾き始めた。
思い出の、あの曲。
だけど、まったく違う、音で。
私はそのメロディーを聴きながら、愛する人を想った。
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