れいちゃんは、半年前に亡くなった。重い病を抱えていたなんて、知らなかった。
最期のときまで、一緒に。誰より、傍にいてほしかった、死ぬことが怖くて苦しくてたまらないから、縋り付きたかった、独りで死ぬのはイヤだったって。
そうして、自分が死ぬ前に唱歌が独りでも生きていけるようにしていきたかったって。
◇――◇
幼少期から僕はなにひとつ手にしたことがなかった。欲しいものはすべて手から滑り落ちるように、消えてなくなった。
父親は生まれる前に事故で亡くなり、母親は仕事が忙しく、家で僕はいつも独りだった。
同級生は幼く、騒々しさが際立って、学校内ならどうにか楽しんでいる自分を演じることができても、家に帰ってまで一緒に遊びたいとは思えずにいた。
独り、本を読んだり、音楽を聴いたり――いつのまにか、自分だけの世界が構築されていて、その世界を壊されることに恐怖を感じるようになっていた。
変化があったのは、母親が再婚することになってからだ。
義父となったひとには幼い女の子がいた。妹という初めての存在に戸惑い、困惑していた僕に舌っ足らずなしゃべり方で「ほんとうにおにいちゃんになってくれるの?」と頬を真っ赤にして嬉しそうに目を輝かせてくれた。
その瞬間、世界が変わった。
あんなに独りの時間を壊されることに怯えていたのに、今度は彼女が傍にいないことに不安を覚えるようになった。
初めての兄に一生懸命ついてくる姿。
同級生たちは自分の妹の存在を鬱陶しいなど愚痴るときもあったけれど、僕にとって妹――唱歌は宝物だった。大切で、手放せなくて、ずっと一緒にいたいと思える存在。
鬱陶しい?
――あり得ない!
傍にいてくれる温もりを、笑い声のあがる食卓を、「おかえり」「ただいま」と言い合える当たり前の日常をくれたのは、唱歌だったから。
その気持ちが歪み始めたのは、思いもかけない両親の死だった。
久しぶりに夫婦で出掛ける予定だったらしく、僕と唱歌に「お土産買ってくるから」と言って、車で出発した。
幼い唱歌は少し寂しそうだったけれど、つないだ手をギュッと握って「秘密のパーティしようか」と内緒話をするように囁くと、すぐに期待に目を煌めかせて、楽しげな笑顔を浮かべてくれた。
その夜、両親の車が事故にあって、ふたりが亡くなるまでは――……。
心が壊れてしまったのかもしれない。
それでも醜態をさらさずにすめたのは、隣で泣き叫ぶ唱歌がいたからだ。
彼女を守るのは自分しかいない。そう強く思った。だけどそれは、この幼い手を離したら、ほんとうに自分が壊れてしまうと恐怖を感じたからでもあった。
幸いにも、両親の保険と父の弟が保護者になってくれたこと、彼にも家族があるから、と保護者になる代わりに、両親の遺してくれた家でふたりで住むこと(もちろん、困ったときは力になるとは言ってくれたけれど。)を条件にしてくれたことで、僕と唱歌の生活に両親が亡くなった以上の変化はなかった。
――ただ、よりいっそう、唱歌が離れることに不安を覚えるようになっただけで。
唱歌を傍に縛り付け、いっときも手放せなくなっていた。
早く独り立ちするためにも、才能が認められていた音楽の道に入ることにした。
作詞、作曲。
まるで息をするように作り上げることができるそれらは、あっと言う間にヒットして、新曲を出すたびにトップを飾る歌になり、名前が売れるようになった。
年齢も重ね、名だけだったとはいえ、おじという保護者から抜け出し、唱歌の保護者という立場になれた。
成長する唱歌を見るたびに、美しくなっていく姿に更に胸に潜んでいる狂気が強まるのを感じていた。
彼女を歌手にして、仕事を与えることで学校に通えなくし、同級生から奪った。
自分の作った歌を唄わせることで、彼女自身にも、周囲にも彼女が自分のものであることを世間に広めた。
唱歌が同じように壊れていく姿に歪んだ悦びを覚えるようになった。壊れてくれれば、彼女をずっとこの腕の中に閉じこめておける。
唱歌が笑わなくなっていくことを知っていて、更に追い込んだ。
――その罰が当たったのかもしれない。
余命一年――……。
恐らく、長くもって。或いは、それより短く。
検査結果の紙を細かく破り捨て、灰皿の中で火に燃やす。
唱歌がいない部屋のリビングは静まり返っていて、不意に姿を消した彼女を捜し出そうとしていた足が動かなくなる。焦燥に駆られ、不安で苦しくて今にも狂い出しそうだった気持ちも消えてしまっていた。まるで、急に暗闇の中に呑み込まれたかのように。
(――死?)
突きつけられた現実に、不思議と覚えてしまったのは安堵。
これ以上、唱歌を苦しめなくてすむという、勝手な想い。同時に、彼女を残して、自分が死ななければならないという、憤り。
未来のない自分と、やがて自分を忘れて他の誰かにその笑顔を見せるようになる彼女。
(いやだ……!)
頭が、心が、魂すべてが、その想像を拒絶する。
「……唱歌」
ため息と同時にこぼれ落ちる、大切な名前。
瞼の裏に浮かぶ、彼女の笑顔。
幼いながら、差し伸べてくれた温かい手。
確実に死が訪れるというのなら、僕が彼女に出来るのは――。
「怒ってるのか?」
窓辺に佇む彼女の後ろ姿に話しかける。
青い空だけがうつる、高層マンションの最上階は一種の鳥かごのようなもの。
逃げたくても、逃げられない。
彼女は僕から、僕は死から。
痛みは薬で誤魔化してきたけれど、とうとう起き上がることさえ困難になって、真実を話すしかなくなった。
病気、やがて死が確実に訪れること、その猶予がとても短いこと。
唱歌は黙ってベッドから降りると、窓辺に歩いていった。それから今まで、部屋の中を支配するのは沈黙――いや、耳を澄ますとすすり泣くような声が聞こえてくる。
「――泣いてるの?」
どうにか身体に力を込めて起き上がり、ベッドから降りる。だけどうまくいかずに、躓いた。
「――っ!」
「れいちゃん!」
慌てて駆け寄ってきた彼女に寸前で支えられる。
転ばずにすんだことに、お互いほっと息をついて、肩を貸してもらったままベッドの端に座る。その間もずっと、唱歌の顔から目が離せなくなっていた。
「なんで泣いてた?」
疑問がそのまま口に出ていた。
「なんで?」
キッと真っ赤な目に睨みつけられる。
「なんでっ?! おかしいよ! そんなこと訊くことがおかしいでしょ! れいちゃんがっ……、家族が死ぬって聞いて悲しまないわけないでしょ!」
「僕は君に酷いことしかしてないだろう。閉じこめて、独占して、自由を奪った。――身体も」
病に蝕まれていくことが怖くて、自分の死ぬ夢を見るようになって、唯一、彼女の身体を抱くときだけ恐怖から逃げることが出来た。甘い夢を見ることができた。だから、縋るように、彼女の身体をひどく激しく貪った。そのうち、優しく抱けたことは数少ない。
最も、抱かれることに我慢していた彼女にすれば、どっちにしてもイヤな時間だったろうけど。
そんな時間を強いていたから解放されるとあからさまに喜ぶとまではいかなくても、安堵の顔を浮かべると思っていたのに。
――悲しむ? 泣く?
胸にとん、と弱い力で叩かれる衝撃に彼女を見る。
「わたしはっ、れいちゃんをイヤだって思ったことなんかないっ!」
その言葉に驚きながら、信じられずに目を細める。今ほしいのは、嘘じゃない。まるで天使であるかのような、優しさでもない。
「僕に捕らわれていることが苦しくて逃げたのは、君だ」
「確かに、苦しかったよ。悲しかった……けど、それはれいちゃんと同じ想いを返せなかったからで、れいちゃんがイヤだったわけじゃない。大好きだよ。わたしのたったひとりの家族なの。大事だし、大切だよ。失いたくないに決まってる!」
見上げて、必死に訴えてくる瞳にはひとかけらの嘘も見つけられなくて。
――なんで。
なんで、君は。
突き放してくれたら良かった。これで僕から解放される、清々したって言ってくれれば。
諦めて、離れて、幸せになればいいさって思い切ることもできるのに。
頬を熱いものが流れていくのを感じた。
彼女の瞳にうつる自分の顔に、幼い頃の自分が重なる。
独りでいい。寂しくなんかない。だれもいらない、と自分の世界を壊さないように、代わりに周囲と距離を置いていた。
ほんとうは寂しがりで、誰かに傍にいてほしくてたまらなかった頃の――。
「最期まで、手を繋いでいてくれる?」
失われていくことが怖くて、怖くて、臆病になっている気持ちが、頼りのない、だけどなによりも本音を口にさせる。
唱歌がふわりと微笑んで、手を伸ばしてくる。頬にそっと触れて。
「傍にいるよ。れいちゃんが眠るまで、ずっと手を繋いでるから、もう離れないから。安心して」
そう言って、抱きつかれる。
『れいちゃん!』
幼い唱歌がよく飛びついてきたときのことが浮かぶ。小さな存在はあたたかくて、ほんの少しのその重みがなにより大切で。
あの頃のように、しっかりと抱き締めて――。
心に染み込んでくる、そのぬくもりを感じながら、胸の中で誓う。
――唱歌を、幸せに。
◇――◇
君の時間を奪ってしまった僕は許されることじゃないだろう。だけど、僕は幸せだった。
君に出会って、君と過ごした時間はすべてが夢の中にいるような、そう思わずにはいられないほど僕には信じられない出来事だったから。
僕は夢を見たまま、逝く。君は現実に返り、未来に歩いていくだろう。
最後に君が選び、作った歌を聴いて思ったよ。その歌の歌詞と曲にそれぞれが込めている、お互いへの想いに、君は歩き出す力を得ていると――僕がいなくても。
唱歌。
義兄として。最後に家族として。
初めて、君に言うよ。
どうか、幸せになってほしい。
――れいき。
「おい、この火はお守りを入れて焼くものだぜ。なに紙を投げ入れてんだよ」
呆れたように言うまぁくんに、わたしは燃えていく紙を見つめる。
「……お守りだったよ。わたしを励まして、守ってくれてたの。でも、もういいから」
燃え上がった紙は煙になって空へ昇っていく。
「はぁ?」
意味わかんね、と呟くまぁくんに笑って、彼の腕に飛びつく。
「幸せだから。もう、大丈夫だから」
バランスを崩すことなく、しっかりと受け止めてくれる。
意味が分からなくても、まるで見透かしたように「そっか」と頷いてくれる優しさに、わたしも「そうだよ」とうなずき返した。
ふたりで立ち昇っていく煙を見上げていく。
「おーい、暇ならこっち手伝ってくれー」
和尚様の声が聞こえる。
「おねぇちゃーん、まぁくん、はやくはやくー!」
天使さまの呼び名から卒業したゆきちゃんにも呼ばれて、二人で顔を見合わせ、「今行きまーす」と笑いながら参拝客に今にももみくちゃにされそうな二人のもとに足を進めた。