幼馴染最前線(1)

ある侯爵と幼馴染の場合

 扇子が揺らめくのを見るとはなしに見ていたら、なんだか重い気持ちがわきあがってきて、唇から溜息になって零れ落ちた。
 (なんで、私ってば。こんなところにいるのかしら?)
 素朴な疑問を頭の中に浮かべて周囲を見回す。

 賑やかに楽団がワルツを奏で、流行のドレスを着た令嬢と上質なあつらえだと一目でわかるタキシードを身につけた紳士が微笑みを交し合い踊っている。そのお腹の底では何を考えているかはわからないけれど、とりあえずこのホールを満たす空気は穏やかで優雅で楽しそうであった。

 ――― 私の気持ちを天井高いホールの更に上。きっと今頃は星が煌いて美しいだろう空に放り投げてしまえば、だけど。

「まだ、諦めてないの?」
 能天気な声が降ってきて、顔をあげる。

 にっこりと微笑む顔は見目麗しく整っている。エメラルドの宝石が埋まっているような澄んだ瞳は可笑しそうに煌いていて、筋の通った鼻も薄い唇も、全てのパーツが彼の貴族然とした顔を際立たせているけれど、なによりも纏う空気が。誰とでも親しげに話すわりには、高貴な雰囲気を漂わせている。それは、誰かに貴族の象徴といえば、と問えば、彼の名前が老若男女問わずあがってしまいそうなくらいだったし、またそれくらいに彼自身有名だった。

「諦める理由がないですわ、侯爵」
 にっこりと微笑み返しながら、裏腹に素っ気無い口調で告げる。幸いにも間近に人はいなくて、遠目からしかわからないこの場の現状は、この空気に溶け込んでいるようにしか見えまい。
 もっとも、女性たちからはちくちくとした視線を投げつけられていたけれど。

「……悲しいなぁ。呼び捨てで構わないんだよ。僕と君の仲じゃないか」
 ふっと眉根を寄せて、影を落す顔は悲しげに見える。―― あくまで見える、だけであって、実際は楽しんでいる。否、愉しんでいるに決まってる。ちくちくと感じていた視線がぐっさぐっさになった。しかも声まで聞こえてくる。

 (あの侯爵様の顔を見まして?!)
 (信じられませんわっ。侯爵様にあんな悲しげな顔をさせるなんて!)
 (どこの馬の骨よ! 許せないわっ!)

 幻聴だと思い込みたいけれど、世間知らずな娘じゃあるまいし。あー。けど、むかつく。そんなことを言われるのも目の前の男が原因だ。この猫被りめ。
 とりあえず紳士淑女の社交場である此処で苛立ちを直接ぶつけるわけにもいかず、仕方ないので遠回しにぶつけることにした。

「つい先日。交際も求婚もまるごとお断りした仲ですわ。ついでに言うなら、友達付き合いも、もっと言うなら幼馴染の縁も断ち切りました」
 口を挟む隙間を与えないように一息に言い切る。ふっふっふ。これで二の句も紡げまい。ザマーミロ。とすべて心の中で嘲笑いながら、あくまでにっこりと微笑む。

「そのわりに、今夜のパーティーの誘いには応じてくれたよね?」
「……応じなかったら、私たちの写真を新聞社に売りつけて、あることないこと吹き込んで婚約発表を宣言し、かつ女王陛下主催のパーティーでプロポーズするって脅したんでしょう!」
 そうなったら、家族の者は諸手を挙げて喜び、あれよあれよという間に教会に立たされているに違いない。むしろ、気がついたら新婚初夜さえ終わってそうで、末恐ろしい。それに比べたら、このパーティーに一緒に参加することくらいなんてことない。
「やだなぁ。僕がそんなこと本気ですると思ったの?」
「やるでしょ、それくらい」
「うん、やっただろうね。きっと」
 肩を竦めながら当然とばかりに言って、悪戯っぽく笑う。
「どうして、私。こんなやつと幼馴染になったのかしら」

「 ―― それはね、フィアナ」
 扇子を持っている手をつかまれる。はっ、と息を呑むと、それまでのからかうような雰囲気をすっかり拭い去って、真剣な瞳が見つめてきていた。

「運命だよ」
 囁かれるとともに、頬に柔らかいものが当たる。

 ぴしりっ、とホール内の空気が一気に凍りついたような気がした。

(なっ……! なっ、な……!)
 凍りついた空気は解け、今度は女性達の奇声が響いた。キャー。とか。信じられないっ、とか。どうしてっ、とか。ついでに倒れた女性もいたのか、男性達の介抱する声も聞こえた気がするけど、全部スルー。

「なにするのよっ!」
 そう叫んで手を振り上げようとしたけれど、しっかり捕まえられた手は意外に力が入っていて振り払うことができず、代わりにキッと睨みつける。最早、微笑んでいる場合じゃない。けれど、彼はどこ吹く風。この騒ぎも、私の怒りも原因が自分にあるとは欠片も思っていない態度で、それはそれは極上の微笑みを浮かべながら言い放った。

「君が言ったんじゃないか。女性関係を清算しない限りは僕の言葉を信じないって。だからね、ほら。こうやって公然と君に愛を捧げれば、諦めてもらえるだろうと思ったんだ」

 責任転嫁するなっ、と叫びたかったけれど、最早起こってしまったことはどうしようもない。……いや、どうしようもなくない。これじゃあ、まさにあっという間に噂になって、教会に ―― 。

「……嵌めたわね」
「君が恋人同士になるのも婚約者になるのも嫌だって言って、幼馴染の関係も断つって言うから、一気に飛ばして夫婦の仲になろうかと」
 しれっと口にした悪気の欠片もない顔を殴り飛ばしてやりたくなった。
「僕も、諦めないからね」
 止めとばかりににっこり微笑みを向けられた。

 ――― っていうか、私。諦めたら、人生終わりじゃないっ。徐々に追い詰められていく気分を味わいながら、いやいや負けるもんかっと明日に向かって決意を改めた。