こんな気持ちになるなんて、思わなかった。
実家とは違う。6畳半と台所、トイレに脱衣所のあるお風呂シャワー付。家賃も新築にしては手頃な値段で、一人暮らしをするには十分すぎるほどの部屋。この部屋を決めたときも、引っ越しの日も忙しくて、それから新しい職場に慣れたりと時間は目まぐるしく過ぎて ――、何もかもに慣れてしまったとき、ふと感じる想いがあることに気づいてしまった。
(――― サミシイ。)
独りでいることの寂しさじゃなくて。
たった一人に会えない故の寂しさ。
幼稚園の頃からずっと一緒だった。家は隣同士で、家族ぐるみのお付き合い。お互いの了承ナシにも部屋の行き来ができるほどの仲で、訪れない日なんて数えるほどしかない。だけど、あまりにも距離が近すぎて、お互い男女の垣根を越えた親友みたいな位置から動けなかった。初恋は別の人だし、中学校でも初めてキスしたのは先輩だった。高校で初めて本気で好きになった人は彼とはクラスの違う、ひと。大学で別れてしまったけれど、幼馴染の彼も同じように初恋もファーストキスも初めて付き合った彼女も私じゃない。でも、その間。何も変わらない関係でずっと一緒に、傍にいた。だから引っ越しの日もじゃあね、と明るく笑って言えたのに。
その日あった些細なことを直接話せないこと。落ち込んでいるときにぽんぽんと優しく頭を撫でてくれる手がない。温かい蜂蜜入りの紅茶を淹れてくれることもない。
恋人だったら、遠慮することなく電話できるのに。寂しいと素直に口にして来てもらったり押しかけたり、できるのに。
幼馴染 ―― あたりまえに会えていたときは、その距離に感謝すらしていたのに。こうして、離れてしまうと、ただの幼馴染の関係だとできないことが多いのに気づいた。
ラグの上に放ったままの携帯電話を恨めしげに見る。画面の待ち受けは、彼の家で飼っている、小学校の頃に公園に捨てられていたのを一緒に拾って帰った犬の権助。柴犬の雑種。
どんなに権助を見つめたところで、携帯は鳴らない。仕方なく手にとって、ボタンを押してみる。検索して彼の名前をだした。だけど、なんていえばいいのかわからない。「久しぶり?」「なにしてた?」思い浮かんだ端から消えていく。全部がわざとらしく思えて、結局もう一度放り出した。
(――会いたいよ。)
募っていく気持ちに息が止められていくかのようで、苦しくなる。
ごろりとそのままラグのうえに寝転んだ。真っ白な天井に、彼の姿が思い浮かんでため息をつく。ぎゅっと目を瞑って消そうとしたけれど今度は頭の中にまで浮かんできた。ダメだ。重症すぎる。
お風呂にでも入って気持ちリフレッシュしよう、と立ち上がった瞬間、ピンポーンと甲高い音が鳴って思わずびくりと身体が震えた。この部屋のインターホンだと気づくのに数秒。それから時計に視線を走らせる。今日が終わるまであと一時間。こんな夜中に宅急便はありえないし、家族の誰かが来る予定もない。いくら勧誘でもまさかこんな時間はないでしょう、と恐る恐る外と繋がる受話器を取った。
「はい?」
不審感いっぱいの声を出して返事をする。
「俺。夜中にゴメン。電話してからとも思ったんだけど、とにかく会いたくてバイク飛ばしてきたんだ」
受話器を通して聞こえてくる馴染み深い声に、息を呑む。
(……幻聴じゃない、よね?)
自分に問いかけながら ―― 気がついたときには、玄関のドアを開けていた。目の前に飛び込んできた彼の顔。すぐにそれは消えてしまって、代わりに、力強く腕に抱き締められる。腕の中にすっぽりと包むこまれた。ふわりと、香る彼のお気に入りのコロンは高校のときに当時付き合っていた恋人へのプレゼントを一緒に選んでもらった御礼にあげたもの ―― それを思い出して、熱いものがこみあげてきた。堪えていた感情が溢れ出す。
「話したかったの!」
「 ―― うん」
「……会いたかったんだよ!」
「うん」
俺も、と耳元で囁かれる言葉に甘さを感じて、ほんの一瞬、胸がぎゅっと締め付けられた。そのあとで、ゆっくりと苦しかった気持ちが解けて、温かい気持ちがこみあげてくる。
「なんか、ありふれた言葉なんだけどさ」
苦笑を滲ませた口調で言いながら、優しく髪を撫でてくる彼の手に心地よさを感じた。ずっと、こうしてほしかったと心が言う。こんなふうに、触れていてほしい。
「離れてみてわかったんだ。おまえがどれくらい俺にとって大事かってことが」
「 ――― うん」
私も、と彼の顔を見上げて言う。
じっと真剣な瞳に見下ろされて、見慣れたはずの顔にどきりと胸が高鳴る。緊張感が漂う空気に、あの頃とは違うものがふたりの間に流れ出したことに否応なく気づかされた。
「……幼馴染、やめてもいいか?」
慎重な口調で問いかけられた言葉に、ゆっくりと頷いて、それから彼の首にぎゅっと抱きついた。身を屈ませたその耳元に囁く。ありふれた言葉なんだけど、と前置きして。
「離れて、やっと気づいたの。あなたが好き。家族としてじゃない。幼馴染でもなく、ひとりの男の人として、好きだよ」
そう言うと、再び、強い力で抱き締められた。
「本当に ―― 」
彼が言おうとする言葉の続きを察して、合わせるように言った。
こんな気持ちになるなんて思わなかった ―― 。