――なにかを間違った。
否、根本的問題としては、恐らくこのドアを開けたことが間違いだったと思う。
自分にふりかかった色彩豊かな紙切れ。クラッカーと思われる物体から飛び出ているきんきらきんに煌めくテープ。
両手に持っている鍋の蓋にこんもりとのっている紙きれ。
蓋しててよかった、と冷静に思いながら、こぼれ落ちたため息。
「あ、あのー。玲奈(れな)ちゃん?」
おびえたようにかけられた声に、鍋の蓋から顔をあげる。
玄関扉を開いたまま、クラッカーを手に持つ男。今年30歳。商社マン華の営業担当実績No,1。水に滴らなくてもイイ男。つまりは顔よし、頭よし、経済力ありという、巷で言う優良物件というやつだ。
(――頭よしって言ってもねぇ。)
他はまぁ、一般常識は持っているので、認めるにしても、唯一頭がいいって言うことだけはどうしても、どうしても理解できない。
頭のネジが1本とんでった、それがきっと、正しい。
だってこいつは、夕飯のお裾分けを持って、インターホンを押したわたしに対して、ドアを開けると同時に――
「Happy Hallowwin!」
なんて叫びながら、紙吹雪きを投げ、クラッカーを鳴らした。
もう一度言おう。
30歳のおっさんが、18才の女の子に向かって、だ。
「……これ、母から」
呆れるのも、哀れむのも可哀想な気がして、とりあえずそう言って鍋を押しつける。
慌てた様子で「あちぃ!」なんて言いながらも彼は鍋を受け取った。
「じゃ!」
急いで、くるりときびすを返すと、がしりっと肩をつかまれた。
「待て待て待て待て待ってよ! 玲奈ちゃん! そんな急がなくっても!」
「いえいえいえいえ、急いでますから!」
えいやっ、離せーっとばかりに振り払おうとしても、華奢な体格の一体どこにそんな力が、というくらいの強さで捕まれていて、逃げられない。
「放せっ、放し――ひゃっ!」
ぞわわっと背筋に寒気のようなものが走る。
暴れるわたしに業を煮やしたのか、肩をつかんでいた手が腰に回されると同時に耳元に息を吹きかけられた。
たちまち、力が抜ける。
その隙を見計らったように、一気にドアの内側に連れ込まれてしまった。
がしゃん!
ついでに鍵まで閉められたところで、ようやく我に返る。
すっかり熱くなっている耳を押さえて振り返る。
あの状況でよく落とさずにいられたもので、鍋を持って、にやりと笑みを浮かべていた。
その、してやったりの表情がムカつく!
「なっ、このセクハラ変態男!」
「えー、そりゃ、ただのご近所さんや幼馴染にすれば問題有りだろうけど。相思相愛の恋人兼婚約者になら、単なる愛情表現だもーん」
「――っ!」
悪気一つない顔でさも当然とばかりの言い方に、言葉が詰まる。
(羞恥心ってものはないわけ?!)
「いーから、お嬢さん。あがっていきなさい」
そう言ってくるりと背中を向けて歩いていく。
ついてくる、と確信している後ろ姿に悔しさを覚えながらも、そこはやっぱり惚れた弱みもなきにしもあらず。
靴を脱いで廊下を歩く。
間取りは自分の家と同じで、上がり込んだ回数も数えきれず。
リビングに続くドアは開け放されていたので、そのまま入ると、彼は鍋を台所に置いたところだった。
「ソファ座って。今お茶入れるから」
「いいよ。私がするから連君は休んでて」
「玲奈が優しい……」
感動したような声が聞こえて、思わず睨みつける。
「私は基本優しいの! 誰かさんが変態行為さえしなければ!」
すると、目をぱちくりと瞬かせる。
不思議そうな顔に疑問を抱いて眉を顰めると、わからない、と肩をすくめられた。
「……おれ? 変態行為なんてしたことないよ」
なに言ってんの。
――え、無意識?
これまでの散々されてきた変態行為の数々が走馬燈のようによみがえってきて、ひどく疲れた気分になった。
(ダメだ。相手にしてると若さを吸い取られちゃう気がするわ……。)
変態行為について説明することを諦めて、キッチンから彼を追い出す。
勝手知ったる我が家。てきぱきとお茶の準備をする。
キッチンは対面式になっているために、彼がソファに座ってテーブルに置いているノートパソコンの画面に向き合うのが見える。
「忙しいの?」
「ちょっとね、新人さんが軽いミスして、そのフォローに回ってるんだ。新人がミスするのは当たり前だし、わかってるからかまわないんだけど、正直この1週間は玲奈に会えなくてつらかった」
素直に吐き出される気持ちに、胸が苦しくなる。
その痛みを堪えて、注ぎ終わったマグカップを持って彼の隣に座る。5センチの距離を空けて。
いつもと違う距離は、受け取ったマグカップの中身を飲みながらパソコンの画面を見ている彼に気づかれないみたいだ。
ほっとしたような、ほんの少し寂しいような気持ちになりながら、そんな自分を勝手だなぁと誤魔化すようにマグカップに口をつける。
「あんなふうに明るく出迎えなきゃ、そのまま部屋の中に浚って、寝室に閉じこめたくなりそうでさ。今も、部屋から帰したくないなぁって思ってる」
「……連君?」
声のトーンが落ちたことに気づいて、視線を向ける。
ぎくりと身体が強張った。
いつも明るい光を宿して、どこまでが冗談かわからないような、年上の余裕を持っている彼の瞳が暗く陰っている。苦しげに揺れる瞳に見つめられて、喉が鳴る。
「……玲奈、おれを避けてたでしょ?」
「っ、なんで?!」
反射的に叫んで気づいた。
その言葉は確信を持たせるだけだと――。
「この距離で確信持った。やっぱり、隣に住んでて偶然でも会わないなんておかしいよな。それまでは意図しなくても頻繁に顔合わせていたのに。最初はおれが朝早くと夜遅くで生活スタイルが変わったからだと思ったんだ。電話には出てくれるし、メールは返信あるし。けど、顔を見ないなんて変だって気づいた」
5センチの距離。
気づいていないふりで、わかっていたなんて――ずるい。
いつのまにか、隙間なく座ることに慣れていた。最初は無理やり。そのうち、諦め。二人の間が親密になるほど、触れ合わない距離に寂しさを感じるようになるほどに。
「おれが聞きたいよ。なんで、おれ、なんかした?」
のぞき込むように聞かれて、思わず視線を逸らす。
自分のマグカップを置くと、彼が5センチの距離を詰めてきて、手に持っているマグカップをそっと取ってテーブルに置いた。彼のマグカップの隣に。触れ合う距離で。
手持ちぶさたになった私の手が大きな手に包み込まれる。
「おれたちは幼なじみだけど、年の差がある。だから不安なんだ。玲奈にいつ嫌われるかって。こんなおじさん、イヤだって言われるかもって」
「そんなこと言わないわよ!」
「知ってる。玲奈が半端な気持ちでおれを受け入れてるんじゃないってことは、わかってるさ」
真剣な表情で自分の気持ちを告げられるなんて恥ずかしすぎる。
(本当のことだから、別にいいけど……。)
否定する気はない。恥ずかしくても、それは真実、彼の言うとおりだから。
年の差がある彼を受け入れることに玲奈は悩んだ。社会人として働いていて、周囲には沢山の大人っぽいきれいな女性が存在している。隣同士だから。幼なじみだから。彼への感情をそう誤魔化そうとして、すべて暴かれてしまった。あまりにも素直にぶつかってくる彼に対して、玲奈自身偽り続けることができなくて。
好きでいようと、傍にいようと決めた。
――けど。
気持ちが揺らいでしまって。
「わたしは――……」
胸の中で、きれいなだけじゃない感情がぐるぐると渦巻いてる。
もっと大人だったら。
連君とせめて同じ年齢だったら。
いま渦巻いている感情を上手に言葉にできない。
戸惑っているうちに、包み込まれていた手にほんの少し力が加わる。そのまま持ち上げられて、手の甲が彼の頬に寄せられた。
「玲奈、好きだよ」
「っ、連君っ!」
「俺たちはたたでさえ、年の差ですれ違ってる。だからその他のことで誤解を生むのはイヤなんだ。玲奈が不安になるなら、俺は何度でもいつでも、素直に言うよ。玲奈が好きだ、愛してるって」
真剣に射抜いてくる瞳に、呆気にとられながらも嬉しさに頬が緩んでいる顔がうつってる。
その顔が彼に告白されたときと同じものだと気づいて、どうしようもない彼への愛しさが溢れてくるのを感じる。
いつだってそう。足を踏み止めている玲奈に力をくれるのは、彼のやわらかで真の強い感情。それを隠すことなくさらけ出してくれるから、自分の感情に素直になるための勇気がわいてくる。
ギュッ、と握り合っている手に力をこめて膝の上におろして、まっすぐ彼を見つめる。
「――わたしも、連君が好きだよ。言ったでしょ、幼なじみとか年上のおじさんとか関係ないって。連君だから好きなの。もっと年上でも、ずっと年下でも、ぜんぜん接点のない関係だったとしても、会いさえすれば。わたしは連君を好きになってるよ」
嬉しそうに――だけどほんの少し泣きそうな顔で笑う彼に微笑み返す。
「だったらなんで、」
「イヤだったの!連君の顔を見たら、触れちゃったら、いままで堪えてきたわがままが爆発しちゃいそうでっ!」
「……え?」
困惑したように見つめられて、思わず目をそらす。とても視線を合わせて告げることのできる内容なんかじゃない。
「今まで幼なじみとして傍にいたから、いろんなことに我慢できてたの。だけど、恋人になったんだって自覚したとたん、連君へのわがままが溢れてきて……」
「わがままって?」
「仕事が忙しいって知ってるけど、会いたいって言っちゃいそうになるし!時間がないのわかってるのに、押し掛けたくなったり。幼なじみの時はね、ただの幼なじみがそんなことでわがまま言っちゃだめって我慢できたの。でも恋人になったら、距離がわかんなくなっちゃって……」
「怜奈ちゃん、かわいいっ!」
急にがばっと抱きつかれてしまって、驚きながら彼の背中をたたく。
「って、ちょっと! 連君?!」
「いや、マジで俺、もう怜奈にメロメロ」
「なにそれ! おやじくさい!」
耳元で囁かれる言葉が恥ずかしくて反射的に叫んだら、ぎゅぅっと抱きしめる腕に力が込められた。
「ちょ、イタいっ、イタいってば!」
彼の背中をたたく手にほんの少し力を込めて、本気の抗議をすると、ようやく腕を緩めて、抱きしめる腕に力を抜いてくれた。それでも抱きしめられたまま、身近な距離で見つめ合う。
「いいよ、わがまま言って。俺は怜奈のわがままくらい、受け止められる男だよ。ちょっとでも顔がみたい、会いたい、一緒にいたい、第一ね、それは俺の気持ちでもあるんだ。だから怜奈、もっと言ってよ。俺の顔が見たい、会いたいって、一緒にいたいって」
「――連君」
躊躇って、作った5センチの距離。
結局、いつも彼には適わない。あっさり引き寄せられ、歩み寄って重なり合う。
「Happy Hallowwin! 悪戯してもいいから、今日はずっと一緒にいてね」
にっこり微笑んで言うと、「もちろん」と極上に幸せそうな笑顔が返ってきた。
☆
「……幼馴染じゃなかったら、こんなに距離に戸惑うことなかったのかも」
ぼそりと呟くと、隣でくつろいだ顔でコーヒーを飲んだ彼が驚いたように言う。
「俺は玲奈と幼なじみでよかったけどな」
「――どうして?」
「だって、怜奈の成長を見てこられたから。えーんくんって、舌っ足らずで抱きついてきた怜奈なんて、そりゃあもう、かわい……!」
「やっぱり、変態男!」
――ハローウィンの恋人たち。