01. short story

2007年11月05日

王よ、後戻りするなかれ。(01short-)

 陛下、といっそ返事を催促されることが今の胸の内をどれだけ軽くするものか目の前で無表情のまま立っている宰相は理解していて黙っていることを察することができるだけに、遠慮なく睨みつけた。たっぷりと皮肉を込めて問いかける。

 「そなたは、木偶の棒か?」

 「それが陛下の私に対する評価だというのなら、いっそ、下克上でもしてさしあげましょうか。陛下がサボる九割の仕事を片付けているこの、私へのそれが正当な評価だというのなら」

 ひとつ皮肉を言ったら倍返し以上に辛らつな嫌味が返ってくるのは、すでにこの関係が成立してから繰り返しているというのに、頭ではわかっていても、心が納得できないでいるせいだ。無表情なのが尚更、むかつく。これがまだ、嫌味を言うだけの顔をしていれば、ふふん、ザマーミロと鼻で笑ってやれるのに。
 悔し紛れに再び、手に持っていた承認待ちの書類に視線を落とす。内容はすでに頭に入っている。それでも何度も何度も繰り返し読んでは、びりびりに破ってやりたかった。それで国民の平和が保たれるのなら、紙切れ一枚いくらでも無かったことにしている。他の仕事をサボりながらも、何度も頭の中でシュミレーションを繰り返した。考えて考えて、頭が爆発したときは、夢だったのかと溜息をついたほどだ。期限まであと数分というこのギリギリになってまで、打開策は見つからずに、だが諦めきれずにサインを書くこともできないでいる。

 「ついでですから、陛下への正当な評価を私がしてみせましょうか?」

 じっと書類を見ていたら、それまでこちらから話しかけない限りは黙ったまま突っ立っているだけだった宰相が唐突に問いかけてきた。必要ない。そうきっぱり吐き捨てようとしたが、自分への評価、という言葉への好奇心に勝てず、視線を向けた。相変わらずの無表情だったが、まっすぐ向けられていた目に驚きながら、「聞いてやろう」と椅子の背に深くもたれる。ギィ、と微かにあげた椅子の悲鳴を合図に、宰相は口を開いた。

 「私は仕える主が陛下でよかったと思っています」

 日頃から、サボり魔だの。国政に関わるには勉強が足りんだの。関わるならそれらしい姿を見せろだの。言いたい放題の宰相の言葉に、何の冗談だ、と聞こうとして、その驚きが顔にも出ていたのか、遮られた。

 「陛下にしかできない、一割の仕事は必ず終わらせるでしょう。それも国民たちにとって、よりよい方向で。後の九割は誰にでもできる仕事です。その報告を読むことも勿論、一割に含まれていますけどね」

 見透かされていたのか、と当然知っているという口調で言う宰相の、それでも無表情な顔に、恥ずかしさと悔しさが募ってきて、むっつりと押し黙るしかなかった。それさえも見透かすように、宰相が苦く笑う声が聞こえてきて、睨むように見ると、急に真剣な目で見つめ返された。

 「いいですよ。陛下がこれから暴君と罵られようと、国民に恨まれようと、私は知っていますから。あなたがこの決断をするのにどれだけ悩んだか。どれだけの傷を受け入れようとするのか。私だけは、―― 傍で見てきた私だけは真実を知っているし、忘れたりはしません」
 いつも辛辣な言葉だけは言いたい放題の宰相の言葉に、思わずまじまじと見つめてしまった。驚きよりも、心の中にわきあがってきたのは、諦めなのかもしれない。先に立つ者は常に孤独だ。どんなに優秀で頼りになる臣下がいようと。私事では親友や恋人がいようと。

 たった一言で。たったひとつのサインで、ひとひとりの未来が変わってしまう。それによって幸福を与えたり憎悪を募らせてしまうことになる。それを知らないと、割り切ってしまうことなどできない。重責だ。それ故の孤独だ。常にいいほうに、など心がけていても、不安がある。これでよかったのか、正しい方向へ進んでいるのか。差し伸べてくる手を振り払っていないか。不安で、眠れない夜だってある。

 それでも、決断しなければならないのだ。それが自分に課せられた立場であり、責任であり、宿命なのだから。逃げることこそが、最も恐れていることだ。 けれど、それでも不安がその想いに勝ってしまうときだってある。だが、宰相は今の一言で不安を拭い去ってしまった。

 ――― わかっていてくれる人がいる。

 散々試行錯誤を巡らせたことを。国民にとって最もよい方向を選択しようとしたことを。見ていてくれて、忘れないと言ってくれる者がいる。それならば、もしも運命が最悪な方向へこの決断を運び去り、国民のだれにも恨まれてしまおうとも。最も最悪な決断をした国王だと罵られ、刻まれようとも。

 そう心に決めて、今までの悩みを吐き出すように、大きく溜息をついた。

 「…………決めよう」
 ペンを持って署名欄にさらさらと、それまでの重さが嘘だったかのように軽い動きで書き終わり、さあ有り難く受け取れ、と書類を渡した。相変わらずの無表情で受け取った宰相は、確認するために署名欄に視線を落とす。それを少し可笑しな気分で、見守った。
 「……私は、だから仕える主があなたでよかったと言うことができるんです」
 それまでの無表情がなかったように、にやりと企んだ笑みを零す宰相にため息を返す。
 「これから忙しくなるぞ」
 「そうですね。陛下の仕事が九割に増えるだけです」
 「書類返せ」
 思わず手を差し出すと、無表情に戻った宰相は何を今更とばかりに懐にしまいこんだ。わざとらしくも恭しく一礼する。
 「戦争をかわしきった国王の直筆として、我が家宝にさせていただきます」
 「……せめて三割にしないか?」
 「ご心配には及びません。サボろうとしたら、この家宝を相手国に見せますから。戦争の火蓋を報せる書類にくそったれ、と書かれたこの書類を」
 淀みなく言い切って、懐にしまいこんだ書類をわざわざ取り出してひらひらと振ってみせた。誰だ。こいつを宰相にしたのは。ああ。自分だ。どうして忘れていたのか。いつしか読んだ本に、頭がいいヤツは統計学的にも性格が悪いと書いてたじゃないか。大陸随一の頭脳明晰な男の唯一の欠点は無表情と思っていたが、違う。欠点は、その性格の悪さに違いない。間違いない。

 「……よん、五割で手を打とう」
 四割と口にしようとした瞬間に、宰相の眉が不機嫌に上がったのを見て、しかたなし。五分五分で手を打とうと思った。

 「その覚悟に免じて、七割で手を打ちましょう」
 どうせそこまで引き上げるつもりだったんじゃないか、と罵ろうにも、ええそうですよと無表情で飄々と言い切るに違いなかったのは経験上わかっていたので、もうため息を返すしかなかった。

 「後戻りなど、できはしないぞ」
 「するつもりもありません。私と陛下ですよ。大陸制覇だって狙えるのに、このように小さな国で大満足しているのが不思議なくらいです。他所のちょっかいなどせせら笑ってやりましょう」
 それでは、三割の仕事がありますので失礼します、と礼儀正しく踵を返して出て行った。パタン、と閉まった扉を見つめながら、深く椅子にもたれる。再びギィ、と音が鳴った。

 「仕方ない。国王であるうちに私はあとどれくらいそう言葉にするのかな」
 それでも、ただ、国民が日々の暮らしをまっすぐにのびやかに過ごしていってくれるよう、できるだけのことをするだけなのだ。あの口の悪い宰相とともに。
 「まったくもって、仕方ない」
 そうは言っても、あともどりなど、できるわけもなく ――― 。

2009年10月25日

Scene1:ひとかけら

 殺したい、殺したい。
 溢れてくる憎悪は果てしなく募り続けて、胸の中でその解放を待って燻り続けているのに、唇から零れる溜息は、それとはまるで逆位置にある愛おしさの欠片なのだとそう言ったら、彼女は信じるだろうか。佳人が語るように憎しみと愛は紙一重なのだと言い切ることは出来ない。確かに彼女を前にすると、憎しみが堪えきれずに溢れてくるし、激しい憎悪はそれだけでしかない。殺したいと、より強い望みにしかならない。

 ――― だけど。

 その顔を見て胸が歓喜に包まれる。心が彼女を求めていたことを知る。誰よりも会いたかったのだと告げる。その喜びは、憎悪だけに支配されているはずの自らの心の、彼女へ向けるほんの一欠けらの愛情のようなもの。それは心の中に募るものでも、燻るものでもないから、甘い溜息となって、零れ落ちてしまうのだ。 

 もちろん、言葉にするわけもなく、そんなこと気づかせもしない。ただ、手に持った剣を振りかざして、今もなお、胸の中に募り続ける憎悪だけをぶつけることに集中する。

 彼女が屍になった、そのときには、そこには愛もあったのだと正直に打ち明けよう。

 たとえ、ほんの一欠けらだったとしても。