2009年06月23日
プロローグ(スクランブル~)
ふむ、と男は手に持っていたティーカップに口をつけ、中身を味わってから満足げに頷いた。大きく黒いトップハット。黒いタキシード。すべてが黒く染まる中で、月明かりが男の顔を淡く照らす。秀麗な眉もスッと伸びている鼻も薄い唇と端整な顔立ちは中性的にも見える。ティーテーブルの椅子に腰掛け、優雅な動きでカップを持ち上げ傾ける仕草には隙がなく、女性がこの場にいたならば見惚れて溜息を零したことだろう。だが今は男一人しかテーブルにはいない。その向かい合わせにはもう一人分の用意がしてあるにも関わらず、男は一人だった。
「今夜の紅茶はまた、一際美味いと思わないか?」
そこに誰かがいるかのように、男は話しかける。勿論、返事があるはずがなかったが、まるで応えを貰ったように頷いた。
「そうだろう。今夜は特別だからね。ああ、勘違いはしないでくれ。今までだって、私は楽しんでいたよ。だが、やはり今夜は特別なんだ」
そう言った男はカップを置いて、テーブルに立てかけていた黒いステッキを手に取った。同時に椅子から立ち上がる。そろそろなんだよ、と肩を竦めてみせた。
「今夜、久しぶりに『扉』が開く。だから、私は迎えに行かなければならないんだ」
くるりとステッキを一振りする。そうして、先の部分でコツコツと地面を叩いた。ひやりとする冷たい音に、男の口端がつっとつり上がる。空に浮かぶ月を見上げて、深く被った帽子からかろうじて覗いている黒い瞳がスッと細まった。
「 ―― 待っていてくれるね。私の、」
呟いた言葉は、最後まで落とされないまま、男はティーテーブルから背中を向ける。まるで笑っているかのように小さく肩を揺らして、足を踏み出した。
歩き去っていく後ろ姿を、真っ赤に染まる満月だけが追いかけていた。
さっきまで男が座っていた椅子にぴょこんっと、小さな兎が飛び乗った。兎 ―― 確かに耳は長く顔だけ見ればそのものだが、目は青い。なによりも、胴体がまるで人間の幼い子どものようではあるが、手足がある。茶色いふわふわの毛に包まれてはいるけれど。
兎は、男が飲んでいた紅茶が入っていたカップに小さく黒い鼻を近づける。くんくん、と匂いを嗅いで不満そうに顔を顰めた。
「相変わらず、こんな水で薄めた飲み物を飲みやがって」
発せられた声は、低い男性の音をしている。
ケチをつけた兎はその手をテーブルに山盛り乗っているスコーンに伸ばした。ひとつ掴んで齧る。屑が零れ落ちたが、気にすることなくむしゃむしゃと食べ続けた。食べ終わって、ふんっと鼻を鳴らす。
「まあまあだな」
ふと、兎の視線が向かいに用意されている空っぽのティーカップに注がれた。気ままに振舞っていた兎の青い瞳が、切なげに揺れる。
「 ―― 俺にはおまえの味方はできねぇよ。どうしたって、あの帽子屋と同じ気持ちなんだ」
そこにはやっぱり兎しかいないのに、まるで返事がわかっているかのように頷いて、小さな肩を竦める。
「あぁ。だが、少しくらいなら選択の余地ってやつを与えてやってもいい。どうするか決めてもらって、それでも俺はやっぱり此処に来て欲しいって気持ちは変わらねぇんだよ、俺の ―― 」
最後の呟きは、もうひとつ口の中に放り込んだスコーンの欠片と一緒に飲み込まれてしまう。兎は空を見上げる。赤い月がじっと、浮かんでいた。『扉』が開いちまうな、そう言って、椅子からぴょんと跳ねて降りるとテーブルの下へと姿を隠してしまった。
後に残されたのは、空になったスコーン皿と、ティーセット。二人分のティーカップが、静まり返った景色の中でかちゃり、と小さな音を鳴らした。
- by 羽月ゆう