05. スクランブル・ティーパーティ

2009年06月23日

プロローグ(スクランブル~)

 ふむ、と男は手に持っていたティーカップに口をつけ、中身を味わってから満足げに頷いた。大きく黒いトップハット。黒いタキシード。すべてが黒く染まる中で、月明かりが男の顔を淡く照らす。秀麗な眉もスッと伸びている鼻も薄い唇と端整な顔立ちは中性的にも見える。ティーテーブルの椅子に腰掛け、優雅な動きでカップを持ち上げ傾ける仕草には隙がなく、女性がこの場にいたならば見惚れて溜息を零したことだろう。だが今は男一人しかテーブルにはいない。その向かい合わせにはもう一人分の用意がしてあるにも関わらず、男は一人だった。
 「今夜の紅茶はまた、一際美味いと思わないか?」
 そこに誰かがいるかのように、男は話しかける。勿論、返事があるはずがなかったが、まるで応えを貰ったように頷いた。
 「そうだろう。今夜は特別だからね。ああ、勘違いはしないでくれ。今までだって、私は楽しんでいたよ。だが、やはり今夜は特別なんだ」
 そう言った男はカップを置いて、テーブルに立てかけていた黒いステッキを手に取った。同時に椅子から立ち上がる。そろそろなんだよ、と肩を竦めてみせた。
 「今夜、久しぶりに『扉』が開く。だから、私は迎えに行かなければならないんだ」
 くるりとステッキを一振りする。そうして、先の部分でコツコツと地面を叩いた。ひやりとする冷たい音に、男の口端がつっとつり上がる。空に浮かぶ月を見上げて、深く被った帽子からかろうじて覗いている黒い瞳がスッと細まった。
 「 ―― 待っていてくれるね。私の、」
 呟いた言葉は、最後まで落とされないまま、男はティーテーブルから背中を向ける。まるで笑っているかのように小さく肩を揺らして、足を踏み出した。

 歩き去っていく後ろ姿を、真っ赤に染まる満月だけが追いかけていた。

 さっきまで男が座っていた椅子にぴょこんっと、小さな兎が飛び乗った。兎 ―― 確かに耳は長く顔だけ見ればそのものだが、目は青い。なによりも、胴体がまるで人間の幼い子どものようではあるが、手足がある。茶色いふわふわの毛に包まれてはいるけれど。
 兎は、男が飲んでいた紅茶が入っていたカップに小さく黒い鼻を近づける。くんくん、と匂いを嗅いで不満そうに顔を顰めた。
 「相変わらず、こんな水で薄めた飲み物を飲みやがって」
 発せられた声は、低い男性の音をしている。
 ケチをつけた兎はその手をテーブルに山盛り乗っているスコーンに伸ばした。ひとつ掴んで齧る。屑が零れ落ちたが、気にすることなくむしゃむしゃと食べ続けた。食べ終わって、ふんっと鼻を鳴らす。
 「まあまあだな」
 ふと、兎の視線が向かいに用意されている空っぽのティーカップに注がれた。気ままに振舞っていた兎の青い瞳が、切なげに揺れる。
 「 ―― 俺にはおまえの味方はできねぇよ。どうしたって、あの帽子屋と同じ気持ちなんだ」
 そこにはやっぱり兎しかいないのに、まるで返事がわかっているかのように頷いて、小さな肩を竦める。
 「あぁ。だが、少しくらいなら選択の余地ってやつを与えてやってもいい。どうするか決めてもらって、それでも俺はやっぱり此処に来て欲しいって気持ちは変わらねぇんだよ、俺の ―― 」
 最後の呟きは、もうひとつ口の中に放り込んだスコーンの欠片と一緒に飲み込まれてしまう。兎は空を見上げる。赤い月がじっと、浮かんでいた。『扉』が開いちまうな、そう言って、椅子からぴょんと跳ねて降りるとテーブルの下へと姿を隠してしまった。
 後に残されたのは、空になったスコーン皿と、ティーセット。二人分のティーカップが、静まり返った景色の中でかちゃり、と小さな音を鳴らした。

01:ようこそ、鑑定屋へ(1)(スクランブル~)

 エレメント通りは、この街において最も賑やかな場所で、お洒落な帽子屋、貴婦人専用の服飾店。高級宝石店、一見では入りにくい店構えのものから、気軽に買い物ができる開かれた大きな店など、様々なお店が並んでいる。
 その中にあって『骨董店』とだけ書かれた看板を入り口に立てかけてある店は、クリーム色の壁に黒地の扉と最も地味な色で塗られており、他の店と比較するとまるで息を潜めているかのようにひっそりと佇んでいた。

 ―――― 暇だわ。
 カウンターに片肘ついて、溜息を吐く。
 お店を開けてから一週間、これといって贔屓になるお客さんもできずに通りかかった老夫婦が好奇心にかられて覗いていくといったくらいで、お買い上げ品は今のところひとつもなかった。
「おい、エリィ。こんなもんどこから仕入れてきたんだ?」
 ふと、店の右端に並べてある棚から声が聞こえてきて、視線を向ける。赤銅色の毛並みに包まれた猫が骨董品のひとつである瓶の中を覗いていた。こちらには背中を見せているので、ふさふさの尻尾が揺れているのが見える。その動きを眺めながらやる気なく答えた。
「決まってるでしょ。エリオットさんが発掘して持ってきたの。サーベルジュ時代に王室で使われていた花瓶で結構、珍品よ。あの時代は、三百年前に……」
「あー、わかったわかった。もういいよ。そんな詳しい説明されても興味ねぇって」
 うんざりしたように頬の髭をぴくぴくと小さく動かして、首を振る。それを見てせっかく乗り気だった気持ちが途端に沈んでしまった。
「訊いてきたのはチェシャでしょ。教えてあげるのに態度が悪いわ」
「猫に礼儀を解かれてもなぁ。にしても、よーくこれだけガラクタばっかり集めたよ。本当にすげーな、おまえさんのそのやる気だけは」
 呆れたように言うと、瓶の置いてある棚からタンッ、と軽やかに降りた。一瞬、ぐらりと瓶が揺れるのを見て、慌ててカウンターから立ち上がる。
「ちょっ、危ないでしょっ、割れたら ―― 」
 そう言ったところで、お店のドア上部につけている鈴がリリーン、と音を鳴らした。ハッと言葉を止めて視線を向ける。
 入ってきたのは、若い男性だった。黒いトップハットにちらりと見えるブロンドの髪。一目で上質だとわかる黒いフロックコート。皺一つないスラックスは同じ黒で纏められていた。手には白い手袋をして馬を模した銀細工が頭についている杖を持っている。
 貴族かしら、とエリィは商売柄、相手を見定めながらとりあえず、笑顔を浮かべて、「いらっしゃいませ」と挨拶をした。男性はにこやかに微笑みを返しながら、店内を見回す。
「ちょっと拝見させてもらっていいかな?」
「ええ、もちろん。何か質問があれば、声をかけて下さいね」
 男性の言葉に頷いて、再びカウンターの椅子に座りなおす。
 はっきり言って、あまり期待はしていない。貴族であったとしても、それなりに年齢を重ねて鑑定眼がないとこの店内に置いてある物の価値はわからないだろう。婦人たちにも気に入ってもらえるように幾らかは宝石箱やアンティーク系のペンダント、ブローチはあるけれど、やはり鑑定屋らしく、エリィは古くから伝わる瓶や用途のわからない置き物を主軸にしている。どれもが本物で珍しいものではあるけれど、鑑定屋が取り扱うものとしてはマニアック過ぎるものでもある。だからこそ、今入ってきた若い男性が店内のものを買っていくとは思えなかった。たまたま通りかかってひやかしに入ってきたに違いない。それでもお客はお客で、骨董品に興味を持ってくれるならそれでいいかもしれない。
 そんなことを思いながら、見るとはなしに男性を視線で追う。紳士らしく服装をきっちりと着こなしているにも関わらず、店内を歩いたり、商品を手に取ったり、じっと見つめたりする動きの雰囲気はやわらかい感じを受ける。自分とは全く縁がないものの、猫でありながらなぜか人間事情に詳しく、それこそ猫のクセにロマンス小説を好んで読むチェシャがよく口にする、プレイボーイというのは彼のようなひとを定義とするのかもしれない。そんな印象をもった。
(……見てる分には、目の保養かも。)
 なかなか目が離せずに、カウンター越しに見つめていると、不意に彼の視線が向けられ、ばっちりと目が合ってしまった。
「……っ!」
 慌てて視線を逸らす。しまった。いくらなんでもわざとらしすぎたかも。
 自分の行動にひやりと背筋に冷たいものが流れる。けれど、エリィの心配とは裏腹に、くすりと面白がるような笑みが聴こえた。思わず視線を彼に戻すと、口元を拳で押さえ、笑みを堪えている。再び目が合うと、先に言葉を発した。
「失礼、ちょっと質問があるんだけどいいかな?」
「えっ、あっ、はい、どうぞっ!」
 かっと頬が熱くなるのを感じたけれど、誤魔化すように慌てて返事をする。はぁ、とどこか呆れた含みのあるチェシャの溜息が聞こえたような気がした。
「ここにあるのは、店主が選んだものだよね。随分、珍しいものが揃ってるけど、どうやって見つけたのかな?」