2009年10月19日

01:伯爵と小さな女の子(04)

 さて、どうしたものか。
 机の上に置かれた領地譲渡に関する手続きに目を通しながら、自分を此処にあてがった忌々しい男をどうやって見返すかの算段をする。どんな手段を使おうとも、華やかなる首都に戻って失った権限を取り戻す。その野望こそが生きる糧であり、復讐でもあった。
 こんなところで終生を迎えるなど、冗談じゃない。
 胸に湧き上がる怒りを感じながら、それでも暫くはこの土地で過ごすしかないのも事実だと、書類にサインを書いていく。その中でもなにかしら自分に役立つものはないものかと細心の注意を払いながら数枚の書類を読み終えたとき、書斎の扉が開いた。
 姿を見せたのは、老齢の執事。顎にわずかな白髭をたくわえており、ブルーの目は従順な光を宿している。皺ひとつない服装を始め、靴までツヤがあるほど磨かれているのは、仕事ができることを意味しているのだろう。実際、伯爵がこの屋敷に着いてから、執事はスムーズなほどに彼の意図を汲み取り、動いていた。彼ほど見事に仕事をする執事は首都での屋敷でも見たことがない。
 宝の持ち腐れだな、と思って、首都に帰るときは連れて行こうと、まだ着いて数時間も経過していないうちに彼は考えていた。
「お連れになった少女の意識が先ほど戻ったようです。いかがなさいますか?」
 開口一番にそう尋ねられて、この屋敷に向かっている最中に道端に倒れていた少女のことを思い出した。屋敷に連れ帰り、医師に任せたあとは、すぐにこの書斎に来て、用意されていた書類を検討していたため、すっかり忘れていた。
 それを顔には出さずに、彼は気遣うような表情を浮かべて見せた。
「どんな具合だい?」
「それが――」
 わずかに言い迷うように執事が眉を顰めたのを見て、なにかしら厄介なことが起こったかもしれないと警戒する。
「身体は幸い、小さなかすり傷程度のようなものらしいのですが、どうやらご記憶が……」
 気の毒そうに言いよどむ執事の言葉の先は、推測がついて、どうやら記憶がなくなっているらしい、と頭の中で付け足す。
(まったく……。来た早々、トラブルにぶつかるとはね。)
 そう思いながらも、暫くはこの土地の領地主である以上、悪い噂を吹聴されるわけにはいかない。どんなところであっても、自分は素晴らしい人物であると認めさせるだけの力量を見せ付けなければ。
 彼は即座にそう判断すると、執事に向かってにっこりと微笑んだ。
「記憶がないのは大事だ。暫くは屋敷で様子を見よう。領地の者がそのうち、訪ねてくるかもしれないからね。こちらからも、それとなく行方不明の少女がいないか探ってみてくれるかい?」
 その言葉に、執事は心優しい主人だと感動に目を潤ませると、「かしこまりました」と頷き、一礼をして書斎を出て行った。
 パタン、と扉が閉まったのを確認して、彼は舌打ちする。
「さっさと追い出してやる……!」
 呟いた声は、わずかに開いている窓の外に落ちていった。
 その外では、長い雑草にまぎれるように、白い兎が長い耳をせわしなく動かしてぴょこぴょこ跳ねていった。

2009年10月25日

Scene1:ひとかけら

 殺したい、殺したい。
 溢れてくる憎悪は果てしなく募り続けて、胸の中でその解放を待って燻り続けているのに、唇から零れる溜息は、それとはまるで逆位置にある愛おしさの欠片なのだとそう言ったら、彼女は信じるだろうか。佳人が語るように憎しみと愛は紙一重なのだと言い切ることは出来ない。確かに彼女を前にすると、憎しみが堪えきれずに溢れてくるし、激しい憎悪はそれだけでしかない。殺したいと、より強い望みにしかならない。

 ――― だけど。

 その顔を見て胸が歓喜に包まれる。心が彼女を求めていたことを知る。誰よりも会いたかったのだと告げる。その喜びは、憎悪だけに支配されているはずの自らの心の、彼女へ向けるほんの一欠けらの愛情のようなもの。それは心の中に募るものでも、燻るものでもないから、甘い溜息となって、零れ落ちてしまうのだ。 

 もちろん、言葉にするわけもなく、そんなこと気づかせもしない。ただ、手に持った剣を振りかざして、今もなお、胸の中に募り続ける憎悪だけをぶつけることに集中する。

 彼女が屍になった、そのときには、そこには愛もあったのだと正直に打ち明けよう。

 たとえ、ほんの一欠けらだったとしても。