2010年02月25日

01:始まりの朝(3)

 ―――タイミングが合えば、出られる。
 この部屋に向かう気配との距離を測りながら、霧華は扉のすぐ傍で身体をかがめた。いくら男女の差があるといっても、隙を突けばわずかなりともチャンスが生まれる。ほんの一瞬でもそれを得られれば、特技をうまく使えば逃げられる可能性がでてくるはず。ダメだといわれたからと言って、素直に頷き従えるほど霧華の性格は大人しくはない。
(……あと、5歩……4、……2……)
 気配がドアの前で止まった。
 夕食の時間。配膳は決まった時間に決まった人間が持ってくる。イチ君の部下で、男性。言い含められているのか、入室して食事を置き、ちらりとも霧華の顔を見ることもなく、淡々と準備して出て行く。最初の頃は声をかけていたけれど、返事もしないまるでロボットのような動きに諦めた。それに下手に親しくなって、零君に目をつけられたら相手がどんな目に遭わされるかは何度も突きつけられたから、できる限り近づかないようにしていた。霧華が動けば、誰かに迷惑がかかる。それくらいなら、大人しく部屋で本を読んでいるしかない。それでも、外に出たいという気持ちは膨れ上がる一方だった。大人しくしているフリをしながら、どうにか出て行くタイミングを探していた。それが、このチャンス――。
 耳を澄ませるまでもなく、ピッピッ、と小さな電子音が鳴る。パスワードを打ち込んでいる音。7回。最後の音が鳴ってから、1秒の間があって扉が開く。
――シュッ。
 軽快な音ともに扉が開き―――。
 霧華はそのタイミングで、勢いをつけて飛び出した。全身で相手を押し出す。
「――――?!」
「っ、ごめんなさい!」
 たたらを踏んで困惑する相手をかえりみずに、部屋を走り出ようとして、咄嗟に腕を掴まれた。予想外のことに息を呑む。相手は食事を両手に抱えていて、とてもそんなことができる状態じゃないはずなのに――。
「そんなに慌ててどこいくの?」
 かけられた声にハッと息を呑む。
 ギュっと強くつかまれた腕に痛みが走る。
 恐る恐る振り向くと、イチ君がにっこりと笑顔を浮かべて佇んでいた。

 腕をつかまれたまま、引きずるように部屋の中に戻されて、ベッド以外の唯一の家具であるソファに座らされた。向かい側にある窓硝子はけして開くことも、なにをしても割れることもない頑丈な造りで、入り込めるのは陽の光だけ。その光を背に目の前に立つイチ君の金糸の髪がきらきらと煌く。身に纏う雰囲気は穏やかなものなのに、ゆったりと細められたダークブラウンの目にはそれを裏切るように鋭い光が浮かんでいた。突き刺さる視線に、身動ぎひとつ、できなくなる。
「――鎖、つけたままにしておこうか?」
 じゃらり、と手にしている先端に銀の枷がついた鎖を弄びながら、イチ君は愉しそうに笑った。
 三日前に外されたそれは、長かった髪を自分で切ったときにお仕置きと言いながら、零君につけられた。両手両足ともにつけられて、思うように動けずにつらかった。食事はふたりに交互で食べさせられるしかなく、お風呂もムリヤリ入れさせられた。身体を洗われたときには羞恥や屈辱に支配されたけれど、抵抗するほどにそれを嘲笑うように精神的苦痛を与えられることを身を持って思い知らされた。二度としないと誓って、ようやく外された、それを再び目の前にかざされて、血の気が引いていく。
 咄嗟に出てこようとした拒絶の言葉が喉に張り付いて、呼吸すら苦しくなる。
「っ、」
 恐怖に呑まれる自分が悔しくて、眦が熱くなる。それでもイチ君の前で涙を見せたくないという意地に、手のひらをぐっと握りこんだ。
「あのねぇ、霧ちゃん」
 幾分か呆れたように嗤って、イチ君は軽やかな動きで隣に座る。いつもそうだ。彼のひとつひとつの動きは優雅で、流れるような動きは隙がない。重みで傾こうとした身体に慌てて力を込めて、その場に縫い止めた。だけど、そうすることがわかっていたみたいに、肩に手を回してくる。馴れ馴れしい雰囲気は微塵もなく、まるでそうすることが自然であるような空気が漂う。大半の女性はどんな心情であっても、うっとりと身を任せてしまうかもしれない。けれど、イチ君の本性を知っているからこそ、そうしてしまうことはできなかった。ただただ警戒心が募る。
 短くなった髪に触れる手は、甘やかすかのように優しい、のに。
「諦めの悪い霧ちゃんにほんの少し、ネタバラシしてあげようか?」
 思いがけない言葉に、ハッとイチ君の顔を見る。触れている手と同じ、優しく微笑んでいることに、怪訝な顔を向ける。
「なにを……?」
「この部屋、窓ガラスはすべて特注の防弾硝子で内外ともに何かをぶつけたりはもちろん、普通の弾丸を使ったって割れない。ドアも電子ロックで二時間ごとに変わるパスワードを打ち込む必要があって、それは僕と零君しか知らないし食事の用意をする部下に直接そのときに教えるからそう容易くは漏れない」
「それはここに入れられたときに聞いた!」
 ――――だから、この部屋から出ることはできないし、逃げられない。
 その事実に何度打ちのめされてきたかわからない。
 苛立ちのまま叫べば、まぁそうだね、と面白そうに笑って肩を竦めると、秘密を打ち明ける子どものようにますます楽しそうに告げた。
「他にもね、監視カメラが部屋全体を映してるんだ。死角を作らないよう、あますところなくね」
「えっ……」
「だから霧ちゃんが怪しい動きをしてたのなんて丸わかり。カメラ担当がね、僕に連絡くれたんだよ。見てたら、なにをしようとしてるのかわかったから、僕がきたんだ」
「監視カメラ……?」
 思わず周囲を見回す。そうとわかるようなものは見つからない。
 イチ君の冗談――?
 だって、部屋全体って。そんなものがもしあったら、だって着替えとか。お風呂とか――。
 想像して、さぁっと血の気が引いていくのを感じた。
 眩暈を覚える。
 冗談であってほしい。そう心から望むのに、この部屋に閉じ込められたときからイチ君は冗談のような本気しか言わない。
 血の気がなくなった私を見たイチ君は考えを見透かしたように苦笑した。
「ああ、それは大丈夫。カメラ担当者は女の部下だから。僕たちが大切な霧ちゃんのそんなところを他の男に見せるわけないじゃない。むしろ、見てたら目を抉り出してるよ。――まぁ零君なら、即殺してるだろうけど」
 そんなことをいいたいんじゃないっ。
 けど、当然デショ、とばかりに言うイチ君は私の言いたいこともわかっていながら言ってる。だから、言っても無駄だと閉じ込められて数年経てば理解してた。
 こみあげてくる溜息さえ、飲み込むしかなくて。それでも代わりに、熱い感情になって溢れてくる。意地でも、そう思っていたのに、頬を流れていく涙を止める方法がわからない。
「……外に出たいの、お願い。イチ君」
「霧ちゃん、僕の前で泣くのはやめたほうがいいと思うよ。そそられて、抑えが効かなくなる」
 顔をあげると、じっと見つめてくるダークブラウンの瞳は甘い熱が浮かんでいる。お風呂に入れられたときに時々過ぎっていた感情。いつ犯されるのかびくびくしていたけれど、ふたりの触れてくる指は慎重で、性的な意味を感じさせるようなものじゃなかった。それでも触られること自体、嫌悪感があったから、精神的苦痛だったのは変わらないけれど。
 今もイチ君は、その熱を吐き出すように溜息をついて、くしゃりと自らの髪をかきあげる。
「……霧ちゃんが十八才になるまで、後一年もつか自信なくなりそー」
 ぼそりと拗ねるように呟かれた声は小さくて、微かしか聞き取れなかった。
「イチ君?」
 なんて言ったの、と聞こうとして。
「――イチ、お仕置きはすんだのか?」
 冷たい声に遮られて、ハッと扉のところに視線を向ける。
 イチ君の双子の兄――零君が相変わらず息苦しささえ感じさせる圧倒的な威厳を身に纏い、佇んでいた。そっくりの容姿をしているのに、表情豊かなイチ君とは違って、感情ひとつ浮かぶことがない能面のような顔はだからこそ、怜悧でよりキレイなものになって、近寄りがたく思わせる。イチ君のダークブラウンの瞳が相手を翻弄するように愉しげに煌くのとは反対に、彼の黒い瞳は目の前の相手を引きずりこむような深い闇を湛えていた。
 じっと見据えられて、嫌な予感を覚える。背筋に冷たいものが走り抜けた。
 同時に思い出した。自分がこの部屋から逃げ出そうとしたこと――。
「零くん……」
「そうそう、新しく開発したんだ。けっこうきついよー」
 明るい口調で言われるには物騒な内容に、身の危険を感じて咄嗟にイチ君から逃げようとして――うつ伏せに押し付けられた。
「やだっ、放して!」
「まぁそういわず。身体に傷をつけるのは問題外だからね。とはいっても鎖だと僕たちの理性が決壊しちゃうほうが早そうだから、頑張って開発したんだよ。何度も実験してようやく完成したんだ」
 ぐっと手を背中に回されて、つかまれる。
「――いやっ!」
 おしおき、という言葉。愉しそうなイチ君。長い付き合いだからわかる、零君の怒りを押し殺したような雰囲気。それだけで絶対にいいことじゃないのはわかる。
 逃げようともがいても、身動ぎひとつできない。
 白銀家特有の教育姿勢で、武芸一般を始め、武器はもちろん、暗殺訓練を受けて零くん共々トップの成績を修めていたと聞いたことがあるイチ君は容易く抑えこんでくる。
 カチリ、と小さな音が鳴って、両手首。それから両足首にひんやりとした冷たい感触があった。
 すぐに抑えこんでいる力が緩んで、慌てて起き上がる。ソファに座ったまま、両手首をかざすと細い金の環っかが嵌められていた。ハッと足を見下ろせば、そこにも同じものがある。
「これ……」
 手で触る。環はきれいに一周されていて、止め具がついてないことがわかった。
 ソファの前に立っていたイチ君が視線を合わせるように、スッとしゃがんだ。つけられた金の環の理由を尋ねようとして、彼はにっこりと笑う。
「説明するよりは実際に体験してみようね」
 そう言った途端――。
「きゃぁ――――っ!!!!!」
 両手足首から電撃が走り抜ける。強い痛みが全身を襲う。
「やぁ――っ、痛いっ、やだ、いやぁっ――!」
 痛い。痛い――っ。
 全身を貫く衝撃に叫ぶことしかできなかった。

01:始まりの朝(4)

「……イチ。そろそろ、いいだろ」
 どれくらいの時間経ったのか、意識を失う寸前にそう声が聞こえた。それを合図にして、全身を襲っていた電撃のようなものが消える。自分がどんな状態でいるのかもわからず、ただ叫び続けてたせいで、喉がひりひりと痛んでいることだけが感じられた。全身には力が入らず、目を開けることさえ億劫でぐったりとなる。
 さらり、と髪に触られて優しく撫でられた。どっちの手だろう、と一瞬考えて、すぐにどっちでも同じだと考えることを放棄する。痛みで流した涙の跡に、苦しくて悲しくて溢れ出した涙が零れる。
「霧華」
 顔にはでないけれど、目を閉じていればわかる。名前を囁く声は優しい。それなのに、告げられる言葉は胸を突き刺す。
「おまえは特別だが――自分の行動には責任を持て。おまえが逆らわなかったら、俺達もこんなことをしなくてすむんだ」
「そうだよ、霧ちゃん。僕たちから逃げられるなんて考えるだけムダなんだよ。君は永遠に僕たちのものなんだから」
 永遠に――――。

「――っ!」
 目を開けると、見慣れない天井が目に入った。いつも見上げていたのは間接照明が薄ぼんやりと照らしていた天井。今は、暗闇に閉ざされていて、ふと隣を見れば、陽菜の寝顔があった。愛おしい存在は規則正しい寝息や温もりを感じても夢を見ているようで。
 息苦しさを感じて、自分が息を止めていたことに気づいた。喉元を手で抑えてはっと息を吐く。息苦しさが治まると今度は、手のひやりとした冷たさを感じて慌てて喉から放した。
 今もまだ、あの環がついている気がして手首を見る。
 なにもついてないことを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
「っ、きり……ちゃ、……だぁいす……きぃ」
 聞こえてきた声に視線を向ける。
 んーっ、と言いながら陽菜がぎゅぅっと抱きついてきて、胸が苦しくなった。
(大丈夫――もう、大丈夫でしょ。)
 強く言い聞かせて、陽菜の頭をそっと撫でがら、やわらかな頬に口付ける。
「私も大好きだよ、陽菜」
 夢の中にいる陽菜にも聞こえたのか、ただの偶然かもしれないけれど、彼女の顔がへにゃりと笑顔になって、思わず頬が緩む。愛おしい気持ちが溢れてきて、泣きたくなった。

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