ForestLond

森に還る恋人たち (1)

 森の中をざわめきが走り抜ける。
 木の根元に座って、本を読んでいたアルベルトは顔をあげた。

( ―――― あのくそじじい。もうここまでたどり着きやがったのか。)
 ちっ、と。舌打ちして、バタンと幾分か乱暴に本を閉じる。
 せっかく授業を抜け出してくることに成功したのに。
 もぎ取った休息は、最近お気に入りの古文書を数ページ読むだけの時間しかもたなかった、とため息が零れる。
 お気に入りとはいっても、持ち主であるくそじじいはまだ六歳にも満たないアルベルトが読むには早すぎると貸してくれなかったために、盗み出してきたものだ。授業放棄と、古文書を盗み出したことと、二重に説教されるのかとアルベルトは息が詰まる気がした。
 だが、いつまでたっても現れない気配に、アルベルトは眉を顰める。
 そろそろ、お説教めいた言葉とともに姿を現してもいい頃だが。
 訝って、アルベルトは意識を集中した。
 風に、語りかける。
(……ちがう? 森の入り口?)
 返ってきた精霊たちの答えに、アルベルトは走り出した。


「まったく、あのくそガキめっ! 抜け出す手法も精巧になってきておるわいっ」
 忌々しそうに吐き捨てて、がつんとリングル老は杖をついた。

 本来なら呪文の手助けとなる杖を乱暴に扱うのはご法度である。折れたり、反動で術が発動してしまうかもしれないからだ。けれど、それを熟知しているはずのリングル老がこうも乱暴に扱うには理由があった。
 杖を結界が包んでいて、リングル老の発する術に一切、呼応しようとしない。
 結界を解くための、普通・上級クラスの解呪は唱えた。それでも解けないということは、更に上の術が必要となる。

 ふぅ、と。一息ついて、リングル老は目を閉じて意識を集中した。
 最上クラスの解呪を唱えようとして ―――― 、

「おいっ、くそじじい! 助けろっ!」

 窓の外から、可愛げのない声が聞こえた。
 驚いて、窓辺に寄る。外では、一人の女性を背中に抱えて、幼い男の子が叫んでいた。

「アルベルト! おまえっ、その女性はっ!?」

 窓から身を乗り出して叫ぶと、アルベルトは苛ついた顔つきで舌打ちする。

「そこで倒れてたんだ。早くしろよっ!」
「ばかもんっ! 早くしろ云々の前にわしの杖を結界で包んだのはおぬしだろうが!」

 そう怒鳴り返すと、アルベルトは一瞬、大きく目を見開いた。
 まだ解いてなかったのか、そんな呟きが風に乗って聞こえる。

(これだから自分の力の使い方をわかってないガキは困る……。)
 呆れながらため息をつくと、【解呪】と唱えるアルベルトの声が届いた。


 アルベルトの連れてきた女性は屋敷の客間にあるベットへと運んだ。
 額に触れても、熱はない。
 いや、微熱程度はあるが。―――― これは。
 リングル老は、額に触れていた手を腹部に移動する。

 そっとあてると、<どくんっ>と命の鼓動が聞こえた。
 妊娠しているのは、膨らんだ腹部から見て取れたが、その命は今にも生れてきそうだった。

「なるほど、だからあの子は急いでおったのか」
 あんなにアルベルトの切羽詰った顔は彼を育て始めてから、見たことがなかった。
 たとえどんなことであっても、アルベルトが助けを求めてくるということも。

「………お願い、」
 ふと聞こえてきた声に、リングル老は我に返る。
 視線を向けると、女性がうっすらと瞳を開けていた。

「気づいたかの。ここは ――― 」
「お願い、……この子を、この子だけは助けて」

 ぎゅっ、と。服の裾を掴まれる。その顔は、恐怖に染められていた。

「安心せい。わしがどちらも助けてやる。死なせはするものか」

 そのときのリングル老は、ただ女性が身ごもった命の喪失を感じて恐怖を抱いているのだろう、と思った。だからこそ、目の前の命を助けたいと、できる限りの手を尽くした。

「……赤ちゃん?」

 目を瞬かせて、呆然とアルベルトは女性の横にいる生まれたての命を覗き込んだ。
 その様子を見ながら、呆れたようにリングル老は声をかけた。

「なんじゃ。その女性に命が宿っていることを知ったから急いだんではないか?」
「それは、わかったよ。でも、初めて見るんだ、赤ちゃんなんてさ」

 ぷにぷに、と人差し指で頬を押すと、「あーっ」と声をあげて、赤ちゃんはその指に吸い付こうとする。その一生懸命な姿に、アルベルトは思わず笑みを零した。

「あの……、助けていただいて有難うございます」
 落ち着いた女性が、二人の会話を遮って礼を述べた。

 いやいや、と首を横に振って、リングル老は女性の傍にいる椅子に腰掛ける。
 飽きずに赤ちゃんを覗き込むアルベルトにちらり、と視線をやって、女性に戻すと笑顔で問いかけた。

「間に合ってよかった。連絡は誰に入れればよいかな? 迎えに来てもらわねばならんだろう?」

 その言葉に、女性はそれまでの安堵の表情を一気に凍らせる。
 血の気は失い、真っ青になった。

「……私、身寄りはいなくて………」
 震える唇がつむぎ出す声は、今にも消え入りそうなほど小さいものだった。

「そうか。それは不安じゃのう。それなら落ち着くまでこの屋敷にいてくれて構わんよ」

「いいのっ?!」

 返事をしたのは女性ではなく、アルベルトだった。

「なんでお前が喜ぶんじゃ…?」
 呆れて、リングル老は渋面を作る。

 今までどんなことをしても喜ぶことをしなかったアルベルトの嬉しそうな顔を初めて見る。
 思わず自分の努力はなんだったんだ、とため息をつきそうになった。

「わしはリングル老とでも呼んでくれればいい。その子はアルベルトだ」
 気を取り直して、リングル老は女性に視線を戻して自己紹介をする。

 女性はほっと息をついて、有難うございます、と繰り返して礼を言うと自分の名前を口にした。

「私は……ティセリアといいます。よろしくお願いします」


 「アルセリア」の名前は、ティセリアと彼女を助けたアルベルトから取ったものだ。
 初めて出会った、自分より小さな命にアルベルトは夢中になった。
 アルセリアと遊ぶことを条件にすれば、アルベルトも精霊使いとしての役目も文句を言わず果たすようになったし、ティセリアも身の回りのことを手伝ってくれるようになっていて、助かっていたから、あえてその身元を探るようなことはしなかった。

 そう思い返すと、わしにも原因はあったのかもしれん。

 あれはアルセリアが生まれて三歳になった頃か。
 仕事の依頼を受け、アルベルトと出掛けていたわしたちは帰ってきて屋敷に異変を感じた。

「結界が壊されとる……」
 屋敷の前で、壊されている結界に呆然となる。
 あの結界を壊すには、最上クラスのものでも難しいはずだ。

「……ティセリアッ?! アルセリアっ??!」

「アルベルトっ!」

 駆け出したアルベルトを制止しようと声をかけるが、足を止めることなく屋敷へと入っていく。
 仕方ない、と息をついて後を追う。
 探ってみても屋敷には気配ひとつなかった。

「アルベルト、お前はもう少し警戒して……」

 目の中に飛び込んできたのは荒らされた部屋。
 その入り口で呆然と佇むアルベルト。
 小さく息を呑む。

「追いかけますっ!」
「待たんか、どこに行ったのかも、誰の仕業かもわからんのにっ!」

 そんなのっ、と。襟首を掴む手を振り払って、アルベルトは言った。

「気配を追えばわかる! アルセリアの気配を俺がつかめないはずないっ!」

「待てッ、待つんだっ! アルベルトっ!」

 どんなに制止しても、アルベルトには届かなかった。
 姿を消して追いかけていったアルベルトに舌打ちして、杖を持ち直す。

『イシャス・リルフェル シム・リコール』
(注・風の精霊よ、記憶を蘇らせよ)

 杖から光が溢れる。
 部屋中を満たした光の中で、リングル老の前にひとつの魔方陣が姿を現した。

「……これはっ」

 記憶の中に刻まれている魔方陣。
 滅びたはずである。
 否、一族自体は確かに存在する。だが、その力は封印された。
 そこで思い当たる可能性。

「まさか、ティセリアは ――― 」
 当たって欲しくない推測。
 だから、続く言葉を口には出せなかった。


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