ティセリアは薄暗い洞窟の中にいた。
両手は背中で縛られて、動かすことができない。
抵抗らしきものが出来るとすれば、目の前で愉悦を瞳に浮かべて、自分を見下ろしてくる男を憎しみをこめて睨みつけることだけだった。
だが、それさえも男は愉しげに受け止めている。
「まったく…、私のもとを逃げ出すとは困った女だな」
嘲りを含めて鼻で笑う男から、ティセリアは顔を背ける。
その先に、アルセリアを見つけて息を呑んだ。
ぐったりと身体を地面に横たえている。
「アルセリアッ!」
ティセリアの叫びに、男の視線もアルセリアへと向かう。ティセリアは背筋に冷や汗が伝うのを感じた。
カツーン、
男がアルセリアの元に足を進める音が洞窟内に響き渡る。
嫌な空気が周囲を包み込んだ。
「可愛い子だ……」
靴の爪先で、男はアルセリアの顎を持ち上げた。
「やめてっ!」
男の行動と、ピクリとも動かないアルセリアの姿に、ティセリアは不安を覚えて涙まじりの叫び声を放つ。ぎり、と。両手を縛る縄が鳴った。
「誰の子だ?」
問いかける男を、ティセリアはきつく睨みつける。
答えを返さず、口を結んだままのその姿を、男は鼻で笑った。
「まあいい。どちらにしても、お前の血を受け継ぐもの。よき器になるだろう」
「やめてっ! その子は…、その子だけはっ!」
男はアルセリアから離れると、ティセリアの元に足を進めた。
「ならば、自分の役目を思い出して、今すぐ儀式を行なえ。我が一族のために!」
男が近づいてくるその足音が、ティセリアには地獄へ向かう秒読みに聴こえる。
だけど、もう。もがくことも、願うこともできなかった。ただ頬に伝う涙だけが、許された抵抗。
ただ、――― アルセリアを想うことだけが、今ティセリアにできることだった。
古時代に繁栄していた召喚士一族が滅びたのは、その力を使って、世界を崩壊させ支配しようとしたから。
それに気づいた精霊使いたちが、戦いを仕掛けた。
争いの果て勝利した精霊使いたちは、召喚士一族を“禁忌”とし、その力を封印した。
ひっそりと暮らすことを余儀なくされた召喚士一族は、やがて血が果て。その力を受け継ぐ者もなくなり、滅びていった。
……だが。巫女の血は。
召喚士一族の要となる巫女の血は受け継がれていっていたのだ。召喚士の力を解放することができる唯一の方法を叶える巫女の血は。
ティセリアは白いベールを被る。
赤い太陽のシンボルが描かれているそれは、巫女の儀式のための正装。
スッと段を昇り、手に持っていた杯を空へ掲げる。
気持ちとは裏腹に、空は青く澄んでいて、太陽が光り輝いていた。
(ごめんなさい……。私は守れなかった……。)
杯を空へ掲げたまま、ティセリアは謝罪する。
守ると誓ったのに。
そのためにアルセリアという贈り物をもらったというのに。
瞼を閉じる。
(……ごめんなさい。)
どんなに謝罪しても、足りないと思う。
泣きたくなった。
「おい、早くしないかっ!」
段の下でティセリアの儀式を見ていた男は、ぐったりとしているアルセリアの首元に突きつけていたナイフを持つ手に力を入れる。
ティセリアは瞼を持ち上げ、杯を指示されていた位置に置く。
その手前に用意されていた短剣を手に取り、鞘から抜いた。
『ティーシャ……リュ・ドフェルゲル・シャルス・ティーシャ』
(注:ティセリアが願う。……この血にかけて偉大なる召喚の力を示したまへ)
ぐっ、と。ティセリアは抜き身の剣を首に押し当てた。
溢れ出る赤い飛沫が、杯の中に溜まっていく。
(アルセリア ――― どうか。どうか貴女だけは幸せになって!)
ティセリアの身体は崩れ落ち、意識は失われていった。
その様子を見ていた男は口元に酷薄な笑みを刻む。
「ようやく……精霊使いたちを滅ぼす力を手に入れることができるっ!」
興奮した顔つきで、拳を握り締める。
だが、次の瞬間。
男は数メートル先へと吹き飛ばされていた。
「なっ……!」
「……なにをしてるんだ?」
男の驚きをよそに、男を吹き飛ばした瞬間にその手から放されたアルセリアを無事に抱きとめた少年は静かに問いかける。
少年 ―― アルベルトはそっと、アルセリアの口元に手を持っていく。首元に手を触れ、脈が規則正しくうっているのを確かめて胸を撫で下ろした。
そのまま、ひんやりと冷たく無表情な顔を男に向け、感情を押し殺した口調で問いかける。
「おまえたちは、なにをしてるんだ?」
「おまえこそ、何者だっ?!」
侵入者だ、男はそう叫ぼうとして、周囲に顔を向ける。
だが、わずかな数の家からは火が立ち上っていて、それを消そうと他の人間たちは駆け回っていた。
「関係ない……それより、」
ティセリアは……、そう訊こうとして、アルベルトは階段を上がったその先の祭壇で、倒れている彼女を見つけた。
アルセリアを抱いたまま、急いで階段を上る。
「ティセリアっ!」
ぐったりと倒れているティセリアの身体を揺さぶる。
身体は血まみれで、首元にざっくりと大きな傷があった。意識もなく、呼吸している様子もない。
アルベルトは血の気が一気に引いた。
「ティセリアッ! ……しっかり、しっかりするんだっ!」
何度も名前を呼び、身体を揺らす。
だが、動く気配は微塵もなく、力の失った身体は熱を失い、ひんやりとした冷たさだけをアルベルトに伝えてきた。