■プロローグ■
美しい王宮の庭園は、秋の訪れが間近であっても、季節を象徴する花々がひっそりと咲き誇り、行き交う者たちの心を和ませる。その光景は何十年と月日が流れ、引退し、自分の心や姿形が老いろうとも、変わることがなく、寂寥を感じさせた。
眺める視線の先で、花をじっと見下ろしていた少女がふたりの間にあった沈黙を破って、振り返り口を開いた。
『おじ様、私たちの結婚を許して下さる?』
いつも明るく何事にも物怖じすることのない少女が声と瞳に不安を滲ませて訊いてくる。
それが彼女がふたりになりたがった理由だろうと見当はつけていたが、実際に問いかけられると、相手の本気がわかるだけに、溜息を零さずにはいられなかった。見上げてくる少女の頭をずっと幼い頃からいつもそうしてきたように優しく撫でながら、首を傾げる。疑問に感じていたことを訊くには今がいい機会だろう。
『なぜ、私の息子なんだ?私が言うのもなんだが、あれは私に反発し、跡を継ぐ気はないという。勿論、私もその覚悟がないものに継がせることも財産を残す気もないぞ。爵位のない男に嫁いだところで、苦労は目に見えとる。おまえなら、爵位も金もある素晴らしい男に望まれ、嫁ぐことは可能なのだよ』
何かにつけ反抗してくる息子よりも、親友の忘れ形見であり、娘のように思ってきた少女が大切で、苦労するとわかっているのに、容易く承服することはできなかった。そうはいっても、自身にも息子に対する頑なな気持ちがある。たとえ、彼女が嫁ぐからといって、その意思を変えるつもりはなかった。だからこそ、少女にはそれこそ不自由のない生活を与えることができる優秀な男のもとへ嫁いで欲しいという気持ちがあった。そういう男ならば、侯爵である自分はいくらだって、知っている。
それなのに、少女はブラウンの瞳を煌かせ、楽しげに笑って首を振った。
『だめよ、おじ様。私が欲しいのは、お金でも爵位でもなくて、彼自身なの。どんなに不自由のない生活をしたところで、私は彼がいないと息さえできなくなるわ。他の誰かに愛してるといわれても、どんな高価なものを捧げられても、私の心は死んでいくだけ。彼だけが私を生かすことができるのよ』
大げさだと、それはいまだ恋愛ものの本を愛読する夢見る乙女達の妄想だと、まだ若い頃ならば切り捨てることができた。しかし、今では身を持って知っている。愛がどういうものか。少女の語る想いが真実であるかを。その瞳が、幻想ではなく現実を見ていることも、わかっていた。例えば、どんなパーティに出席させたところで、息子が傍にいない少女は口にした通り、輝きを失うのだ。代わりに息子をエスコートに頼んだときは、貴族社会の中で見栄えのしない息子であっても、彼女は傍を離れようとせず、常に生き生きと華やかに笑い、輝く。
因果なものだと、苦々しい想いがわきあがる。けれど心の片隅では確かに誇らしくも感じていた。貴族社会には向かないものの、息子の正義感、誠実さ。頭の良さは認めている。それを理解してくれているのが目の中に入れても痛くないほどの娘だということも、嬉しくないわけがない。ただ、貴族社会というこのハイデンホルムで、自身の立場にあって、娘を幸せにしてくれと約束した親友との言葉がなければ。
――――それでも。
『おじ様。私、彼を愛しているのよ』
降り注ぐ光を金糸の髪に受けながら、心から微笑む少女に、首を振り続けることなどできるわけがなかった。
「――こんなところで、申し訳ない」
面影はたちまち消え去り、苦々しい現実を呼び起こさせる声に、視線は変わらず庭園に向けたまま返事をする。
「引退した身で謁見室では気が引けてしまいますからな。こういった場所が気安くて、丁度いい」
「思い出でも?」
探るような問いかけに、しかし答える義理もなく、首を振った。
立場では相手が上ではあるが、だからといって昔のように敬う気持ちには微塵もなれない。むしろ、どんなに時が流れても、男に会うと殴りかかりたいほどの怒りがわきあがってくる。そうしないのは、最早関係を持ちたくないからに過ぎなかった。王宮で問題を起こせば、どこからか漏れて、噂になる。それを微かでも孫娘や、後ろ盾をしている少年の耳に入れたくないからだ。穏やかで優しい祖父、というイメージを壊したくはなかった。それに好奇心のかたまりである孫娘がどんな形で介入してしまうかもわからず、そんな危険は些細なことからも起こさないよう、細心の注意が要る。
怒りが理性を振り切らないうちに、懐から一枚の封筒を取り出し、隣に佇む男に渡す。
「先日、息子にこんな手紙が届いたそうだ」
受け取った男がそれを開け、中身を取り出す気配を感じる。一通り目を通したのか、呆れたような溜息が聞こえてきた。
「……我が息子の行動力には呆れるな。はたしてどうやって探し出したのか」
経緯も理由も知りたくはない。必要なのは警告で、かつての厳格な侯爵として常にそうあったように低い声でそれを告げる。
「あの娘が亡くなってから、縁は切れたはずじゃ。あなたの息子には悪いが、過ちを繰り返しとうはない。もう関わらんでくれ」
わずかに沸き起こる苦い想いを飲み込み、庭園から視線を引き剥がして男に背中を向けた。思い出がありすぎるこの王宮は、わずかな懐かしさよりもすでに痛みしか感じられず、できるだけ早く退散したかった。
「――私も、息子が可愛い。あのひとの産んだ子どもだからね。侯爵、それは同じだよ」
一言一言を噛み締めるように口にされた言葉は、それが真実であると疑うべくもない。だが、その真実は歪められた上で作られたものだ。今だ少女の面影を引きずる心は、納得できるはずもなく、だからこそ返事もせずに、その場を去る足を速めた。