■過去を美化した現実■
―― 憐れまれている。
それに気づいたとき、無性に腹が立った。
まだ、憎まれていたほうがマシだ。
やがて、そんな感情の荒波を抱くことにひどく疲労を感じ、馬鹿らしくなって、放棄した。何も感じなければいい。そうすれば、とてもラクだ。世界はとても単純にできているのに、自らが複雑化する必要はない。だから切り捨てる。
突き詰めていく思考に答えを見出せたような気がして、彼は膝の上で広げていた本に再び意識を戻した。ところが ――。
「何か用?」
ふと、本に差した影に気づいて、顔をあげる。
女の子がぱちくりと、目を瞬かせて立っていた。ブラウン色が濃い目はハイデンホルムに特徴付いたものではない。だが、光に煌くきれいな金色の髪はそのものを意味している。物心つく前から一緒にいた存在。物心がつくようになって、彼にはとてもイラつく存在だった。わざとらしく避けて距離を置いているのに、彼女はその距離を躊躇いもなく踏み越え、飛び込み、荒らしていく。自然、冷たい声になるのを止められなかった。
「ううん、マックス」
そう言って、女の子―ユリーナは隣にちょこんと腰掛けた。それはいつものことだったから、たいして気にせずに本を読み始める。だが、いつもと違ってその距離と向けられる意識にイラッとなった。
「何か用があるの?!」
びくりと小さな身体が震える。たちまち、丸い目が潤み始めた。それに罪悪感が募って、広げていた本を閉じて立ち上がる。
「用がないなら、僕は帰るから!」
「待って! わたしも帰る!」
慌てて立ち上がってついてくるユリーナに、わけのわからない感情が爆発した。
「何でついてくるんだよ!」
「だって、マックス……。ひとりじゃやでしょ?」
「ユリーナといるより独りがマシだ!」
傷つけるとわかっていて放った言葉だった。
今はだれにもかまってほしくない。ひとりにしてほしかった。誰か傍にいたら、放棄したはずの思考が戻ってくる。それは惨めな感情を呼び起こさせるから、ひとりになりたかった。ひとりでいたかった。
再び、ユリーナのブラウンの瞳には透明な滴が浮かんでくる。それを見て、マックスは失敗したことを悟った。どうしてだろう。他の大人たちや余所の子供たち相手ならいくらだって優しくなれる。否、優しい言葉をかけることができる。笑顔を浮かべて、相手を不快にしない程度の言動ができるのに、ユリーナや、ユリーナの両親にはつい本音をぶつけてしまう。
ごめん、と謝ろうとして、マックスは不意に温かなぬくもりに包まれたことに気づいた。
「ユリーナ?」
「わたしはそばにいる。ママがいったもの。大好きなひとのそばにいることが女の子のしあわせなんだって。大好きなひとがかなしんでるときやつらいときは、なにを言われたってそばにいなさいって。だから、ユリーナはマックスのそばにいるの!」
幼い両腕を精一杯回してくるユリーナは、ぎゅっと力を込めて、言う。それはまるで、お気に入りのヌイグルミを離さないというときのようで。
「なんだよ、それ。僕は別に悲しんでなんか……」
だけど、熱いかたまりが喉からこみあげてくるのを感じて、それを押さえつけるように、小さなユリーナを抱きしめる。伝わってくるぬくもりに、ようやく自分が泣きたかったのだと認めた。認めるのは悔しいけれど。
「……マックス?」
ユリーナが傍にいてくれるのなら、そういった惨めな感情と向き合うことも怖くないような気がする。
「マックス……。なんで泣いてるの?おなかいたいの?」
悲しんでいるから傍にいる、と言ったのはユリーナなのに、それと泣いている理由が結びつかないところが彼女らしくて、ユリーナの柔らかな金の髪に顔を埋めながら笑う。
太陽の温かな匂いが、鼻をくすぐる。
「――そうだよ。ユリーナが手作りのおかしなんて食べさせるから」
数日前に、母親と初めて作ったと、真っ黒に焦げたお菓子を食べさせられたことを思い出して、恥ずかしさを誤魔化すためにそう口にした途端、腕の中で、ユリーナが暴れ出した。
「わっ、じゃあ、おくすりのんで、ねてなきゃだめ!マックス!ママをよんでくるから、はなして!」
「やだ」
逃れようとするユリーナを更にぎゅっと抱きしめる。
「つらいときは、傍にいてくれるんだろ?」
笑いながら言ったにしては本音がこもっていて。なにもわからないくせに、なにもかもわかったようにユリーナが甘やかしてくれるから、もういいんだと諦めにも似た感情を抱いた。他にはなにもいらない。ユリーナさえ、傍にいてくれれば、かろうじて残っている人としての感情を失わずにすむ。逆に彼女を、この小さな心のより所を失ってしまえば――
「じゃあ、マックス!ここでねて!」
不意に腕を強くひかれて、ユリーナを見る。その場に座り込んで、小さな膝をぽんぽんっと叩いてる姿に、その行動の意図を理解して、思わず呆れる。
見上げてくる彼女の瞳は断固拒否を許さない、強い光を浮かべていて、自分の言動が招いたことだと、恥ずかしさと嬉しさを言い訳で誤魔化して、ごろりと横になった。
小さなユリーナが我慢できる限界は、5分も持たないだろうと心に留めながら、ユリーナがそっと髪を撫でる感触にゆっくりと瞼をおろす。
そよぐ風と、置きっぱなしになった本のページをめくる音を聞きながら、小さな小さな手のひらが与えてくれる心地よいぬくもりに、頬を熱いものが流れていくのを感じていた。
あの頃のユリーナは僕にべったりで、実に可愛かったよね。
思い出話を楽しげにするマックスに胡乱な眼差しを投げて、ユリーナは叫び出したい気持ちをぐっと堪えた。此処にいるのが二人だけなら、むしろ叫ぶだけじゃなく喧嘩を売ってやりたい。マックスにべったりだったなんて、どれだけ自分の中で過去を美化しているんだろう。
ユリーナにはマックスに虐められたことしか記憶にない。せっかく作った初めてのお菓子を持っていけば、食べたせいでおなかを壊したと文句を言われ、膝枕を要求されて足が痺れるほどの時間居座られた。街中で置き去りは数え切れないほどあったし、特にフェネックを拾ってきたあたりから、ヒドくなった。今思い出しても、はらわたが煮えくり返る。
「とても楽しい時をお二人で過ごされてきたのですね。羨ましいですわ」
穏やかな微笑みを向けられて、ユリーナはひきつった笑みを返すだけが精一杯だった。
おっとりとした口調で言う婦人はハルミナ公爵夫人で、年齢は七十に近い。社交界において最も力のある女性で、前国妃と懇意の仲とも言われている。その立ち居振る舞いはやはり、年老いたとはいえ、衰えることなく一挙一動がとても美しく、つい目を奪われてしまう。
本来なら、ユリーナとは縁遠い彼女となぜテーブルを同じくしているかといえば、祖父の幼馴染でもあるという公爵夫婦が二人で祖父の屋敷を訪れたところに、たまたまユリーナとマックスが居合わせて、せっかくだからと五人でディナーをとることになった。
「――しかし、おまえのところに孫娘がいたことは知っていたが、こんなに可愛らしい娘さんじゃったとはな。この前の社交界デビューで見たときには驚いた」
食後のデザートを断り、代わりに出てきた珈琲を飲みながら、公爵はしわの深い口元を緩めておどけるように言う。白銀の髪と眉は祖父と同じ色合いだったが、いまだ厳しさを面影に持つ祖父よりも温和な顔つきをしていて、親しみが持てた。祖父もそんな公爵に笑みを浮かべ、気安い口調で応じる。
「そうじゃった。あのときは、たいして話もできんで帰してしまって、すまんかったの」
「仕方ないですわね。世間を賑わせている怪盗紳士に狙われたのですもの」
三人のやりとりで、ユリーナは初めて怪盗紳士に会った日のパーティのことを思い出した。そういえばあのときは事件のことで忘れていたけれど、公爵夫婦も招待されていて、軽くだったけれど挨拶を交わした覚えがある。とはいえ、沢山の貴族のひとたちに挨拶をしただけに、ひとりずつの顔までははっきりせず、やっぱり私は社交界には向かないなぁ、とデザートであるスフレにフォークを入れながらこっそり溜息をついた。
「怪盗紳士が攫いたくなる気持ちもわかりますわね。こんなに可愛らしいお孫さんですもの」
「もっと早く知っていればなぁ。わしのとこにもそれなりの孫が……」
残念そうに公爵が呟いた途端、隣にいたユリーナだけはほんの一瞬、マックスにぴりっと緊張が走ったことに気づいた。どうしたんだろう、と視線を向けようとして、婦人の笑い声に遮られる。
「あらあら。あなた。こんなに素敵な幼馴染の婚約者がいるのに、なにを言っているんですか。私たちの孫では、容姿も能力も彼には見劣りするでしょう。ユリーナさんの夫候補にするには侯爵が許しませんわよ」
「ええっ!」
思わずあげた声に、全員の視線が集中した。
ハッ、と我に返って公爵夫妻の前でするにははしたない行為だったと思い至って、羞恥心に頬が熱くなるのを感じ、どうにか誤魔化そうとするけれど頭の中は真っ白だった。
「……いやいや。社交界デビューをしたとはいえ、まだまだ令嬢と呼ぶには程遠い行儀でね。マックス君には苦労をかけとるんじゃ」
苦笑しながら助け舟を出してくれたのは、祖父だった。曖昧な笑みを浮かべて、椅子に座りなおす。やっぱり貴族社会の礼儀作法は難しい。普段、好き勝手にさせてくれている父を思えば、感謝したくなった。ほんと、常に大人しくしているなんて、窮屈すぎて性格に合わない。
「まあ。でしたら今度、ユリーナさんより少し年下ですけれど、若い令嬢たちを集めて、ハイデンホルムの西にあるカレーナ領の城で礼儀作法の勉強会のようなものを行ないますの。ご一緒にいかがかしら?」
公爵夫人が祖父に顔を向けているのを確認して、ユリーナはこっそり首を振り合図を送る。祖父はわかっている、というようにユリーナに目を合わせ微かに頷いた。それを見て断ってくれるだろうと、胸を撫で下ろした瞬間、爆弾が落ちた。
「ユリーナ。せっかくだから、行ってくるといいよ」
「マ、マックス……!」
「いい機会じゃないか。そのままの君でも僕は満足だけど、社交界に通じる礼儀作法を身につけ、素敵なレディに近づくことを試してみるのも」
遠回しに、素敵なレディになるのはムリだと含めてあるマックスの発言に、ユリーナはムッと眉を顰める。
「なによ、それ。私がレディになれないっていうの?!」
「レディになるのは難しいんだよ、ユリーナ。一昼夜で容易く身につくものじゃない。だけどせっかくご高名のハルミナ公爵夫人がご教授して下さるっておっしゃってるんだから、習うべきだと僕は思うけどね」
たとえ、無駄骨に終わろうとも ――。
最後はユリーナだけに聴こえるよう呟かれたものらしく、にっこりと微笑む姿は完璧で、目の端では婦人ばかりではなく、ハルミナ公爵までもが頬を染めているのが見えた。長い付き合いからか、流石に祖父はハラハラしている様子だったが。
(冗談じゃないわっ。やってやろうじゃないっ!!)
そう叫び返そうとしたけれど、むりやり飲み込んで、マックスではなく公爵夫婦ににっこりと笑顔を見せた。
「その勉強会、ぜひ参加させて下さい!」
やれやれと溜息をつく祖父と、嬉しそうな公爵、「あらあら、とても楽しみだわ」と微笑む婦人。満足そうな笑顔を浮かべるマックスを尻目に、絶対にマックスをぎゃふんと言わせるくらいの礼儀作法を身につけて見せるんだから、とやる気に燃えた。