第一章 精霊使い

四、浄化(3)
 校舎の中は、暗闇と静けさに包まれていた。
 一本の懐中電灯が照らし出す明かりと、窓から差し込む月の光だけがひっそりとした廊下を進む二人の支えだった。
 由里はどんどん突き進む悠奈の腕に震える手でしがみつきながら、呟いた。
「怖いね……」
 ちらり、と見ると、由里の手も足も震えていた。
 悠奈はこんな怖さよりも、もっと恐ろしいものがこの世にあることを知っている。だから、由里に同意することはできなかった。
 堂々と進む悠奈に尊敬の眼差しを由里は送る。

 1−A,1−B……と進んで、1−G教室まで、もうすぐだった。あと数歩という寸前、異変が起こった。

「どっ、どうしたの?!」
 突然、悠奈が呻きながら座り込んだ。由里は肩を揺すりながら、慌てて声をかける。
「…ゆ、ゆり……てっ!」
 微かな声に、由里は首を傾ける。聞き返す由里に、今度は悠奈が怒鳴りつけるように叫んだ。

「逃げてっ! 早く、逃げてっ!!!」

 一瞬の、最後に振り絞った力で叫んだのか、悠奈はまた苦しそうに呻きだした。
 混乱に陥った由里は唐突に起こった悠奈のその異常さに、震えながらも逃げる体勢をとった。危険だ、と警告を感じる。
「誰か呼んでくるから…っ、待ってて! すぐ、戻ってくる!」
 そう言って、走り出した。悠奈の声が廊下に響く。

「戻らないでっ!! ………っ、」

 その切羽詰った声に、由里の瞳に涙が溢れる。
( ―――― 誰か助けてっ! 誰かっ!)
 走りながら、必死に叫んでいた。


 突然だった。いつものような予兆もなく。
――― 唐突に。苦しみが襲ってきた。内側から。
 解放しろ、という怒鳴り声とともに。
(目の前に極上の血がある。)
 誰のことかすぐにわかった。でも、許すわけにはいかない。けれど、どんなに抗っても、今までの経験からその声に逆らえなくなることを悟っていた。

「…し、ん…い……ち」
 小さな呟きが悠奈の口から漏れた。

 一瞬、崩れ落ちるように倒れた悠奈の身体が、ゆっくりと立ち上がる。
 鋭い光が悠奈の目に浮かんでいた。餌を狩る獣のように。

「……遂にこの時が来た」
 歓喜に震える口調で悠奈の意識を支配した『魔』が言う。

 悠奈の意識を打ち破るほどの、完全に支配するほどの力がつくのを待っていた『魔』は、解放された悦びに打ち震えた。だからこそ、欲望のままに血を狩り始める。
 まずは逃げていったあの女、から。―――― そこに悠奈の意識は既にない。


「 ――― 予想通り」
 くすり、と嬉しそうに香穂は微笑んだ。
(楽しそうですね?)
 すぐに砂霧の不思議そうな声が脳裏に響く。
 まあね、と頷いて香穂は視線を遠くに見える校門の方へ向けた。

 あれから、「おやすみ」と言って部屋に戻るフリをし、秋に学校へ向かうように指示をした。佳人に知られたら、夜中の外出は危険だと止められていただろう。
 誤魔化すことも言いくるめることも面倒だった香穂は気づかれないように動いた。そのために、秋を先に行かせて校門で待っているように言った。

「わざわざ、秋を感動させるための趣向を用意したのよ。楽しくなくちゃね」
(そのために、霊を呼び寄せたのですか?)
 呆れた口調で言う砂霧に、当たり前でしょ、と返して香穂は小さく肩を竦めた。
( ――― 相変わらず、無茶苦茶ですね。いえ、知ってはいましたけど……。)
 言いごもる砂霧の言葉の裏に、それでも愛情を感じて香穂は言い返さず、ただ聞いていないフリをした。

「香穂!」
 香穂が来たことに気づいた秋が、門のほうから駆け寄ってくるのが見えた。
「しゅ…?!」
 名前を呼びかけて、秋の背後に見つけた姿に香穂は目を見開いた。驚きに息を呑む。
 気のせいかと思いたかったが、それはしっかりと声を放った。
「今晩は、香穂ちゃん」
「いやぁ、偶然だねぇ」
 思わず香穂はこの場で、頭を抱え込みたくなった。
 目の前には、昼間別れてもう二度と会うことがないだろう、と思っていた雪広と美奈子がにっこりと微笑んで立つ姿があった。

( ――― どういうこと?)
 睨みつける視線に、秋の額に冷や汗が浮かぶ。

「ぼっ、僕が学校に向かおうとしたら……そしたら、」
 突然、目の前に車が現れて。見覚えのある車だなって思ってたら、二人が姿を見せたんだ。

『偶然だなぁ、秋くん。こんなに夜遅く、どこへ行くんだ?』
『良かったら一緒していい? 遠慮なんてもちろん、いらないわよ。決まりね、さ、乗って乗って!』
 そう早口で言うと、ほとんど無理矢理といってもいい勢いで車に乗せられた。
 仕方なく、ここまで一緒に来ちゃったんだよ、と。ため息混じりに事の次第を説明する秋に、香穂もため息で返した。
「来ちゃったって……」
――――― ふぅ。
 深いため息をつくと、香穂は砂霧の含み笑いが聞こえたような気がした。
「ごめん……」
 捨てられた猫のような目で見つめてくる秋を、結局は怒る気にさえもなれない。
 そこが砂霧や佳人に『秋に対してだけは甘い』、と断言される所以なのかもしれないけれど。
「いいよ、秋が悪いわけじゃないでしょ」
 実際にこうも甘いのだから、それこそ仕方がない。
(それに、そういうつけ込まれ易い所も好きなんだから。)
 香穂は自分に苦笑しながら、落ち込む秋を慰める。代わりに、美奈子たちへ厳しい視線を送った。
「偶然じゃないでしょ、見張ってましたね?」
 鋭く見通したような一言を告げられて、二人はたじろいだ。渋々と認めるように言う。
「見張ってたっていうか…、たまたま、二人でコンビニに買い物に行こうってことになって」
「ついでに新城家へ寄ってみるかってことに……」
 美奈子の言葉に、雪広が付け足した。
 次に香穂が言葉を発する前に、風が動いた。
「しょうがないですね。 ――― 秋、行こう」
 困惑の表情を浮かべている秋に声をかけて、香穂は校舎を目指して走り出した。
 すぐに秋が追いかけてくる気配を感じる。あの、二人も。
(砂霧、あの二人のことは頼んだからね。)
 本来なら別にあの二人がどうなろうと、構わない。けれど、そうなると秋は自分を犠牲にして守ろうとするだろう。そうなれば、必要のない力を使わないといけなくなる。
 使いたくもない、精霊の力を借りて。

(心配はいりません。)
 毅然とした砂霧の返事が聞こえた。
(本当は、砂霧が他の ―― 人間を守るなんていうのも気に食わないんだけどね。)
 でも、それ以上に秋が誰かを守るところを見るのも嫌だ。精霊を使うのも嫌だとなれば、砂霧に頼むしかなかった。
(けれど、それが香穂さまを守ることに繋がるのですから。)
 香穂の複雑な心境を理解している砂霧の返す言葉に、自然と香穂は微笑んだ。
 だが、すぐに厳しい顔つきに変わる。

「助けてぇ ――――― っ!!!」

 校舎の中に足を踏み入れた瞬間、少女の叫び声が聞こえた。

≪風の精霊よ。風の刃となりて、敵となるものを切り裂け≫

 風の攻撃呪文の中では弱い部類に入る呪文を口にのせる。それでも、香穂が使う呪文は他の『風使い』たちに比べると倍の威力を放つものだった。

 叫び声と気配が近づく。

「キャァァァ ―――― ッ!」

 職員室と書かれたプレートの前を通り過ぎ、角を曲がったところで、壁を背に追い詰められている一人の少女を見つけた。

「行けッ!」
 香穂の命令で、風の刃が放たれる。

 今にも少女の首筋に牙をたてようとしている悠奈 ―― 霊魔は寸前でその気配に気づいて、結界を張ろうと身構える。
 しかし、次の瞬間には霊魔はその場から数メートル離れたところにある壁に叩きつけられていた。

「うっ……!」
 呻いて、そのまま崩れ落ちるように倒れた。

「よかった、間に合って」
 零れ落ちた香穂の呟きは、けして少女の安否を気遣ってではなく。裏でコトを起こした張本人が、目的を果たさずに間に合わなかったではここまで引き伸ばした意味はないし、魔の意識に力を与えて悠奈を支配させたことも無駄になる。
 そんなことには当然しないけど、と香穂は息をついた。

「大丈夫ですか?」
 霊魔に襲われかけていた少女に近寄って、秋は気遣うように声をかける。
「どう?」
「気絶してるよ……」
 香穂が聞くと、秋は小さく首を横に振った。
「牙の跡はあるけど、まだ血は吸われてないね」
 そう言う秋に頷いて、香穂はちらり、と。離れたところで倒れている霊魔に視線を向けて言う。
「秋。悪いけど、今回はこの子と後ろで見学してて」
 秋は驚いて目を見張る。
 抗議しようとした言葉は、にっこりと微笑んだ香穂に遮られた。
 「感動するものを見せてあげるから、ね?」
 香穂の視線の先で、フラフラと霊魔がお腹を抑えながら立ち上がった。顔は怒りに染まっている。

「……お、のれっ! 邪魔をするなっ!」
 言葉を吐き捨てるとともに、霊魔も力を放つ。霊気が速いスピードで香穂に向かう。

――― ぶつかる。
 直後、球状の霊気は標的にぶつかる前に、その姿を消した。

「なっ、なんだと……!」
 怒りに染まっていた霊魔の顔が、驚きに変わる。
 香穂は秋に早く後ろへ下がるように促すと、霊魔に向かって足を進めた。

 一歩、一歩。ゆっくりと近づいてくる香穂の姿に、なぜか霊魔は恐怖を覚えた。顔が歪む。

「よっ、寄るなっ!」

 霊魔は次々に霊気を放出する。だが、その全ては香穂に当たることはなく、周囲に避けられた。霊気がぶつかった衝撃で、結界により建物が壊れることはないにしても、煙が発生し、香穂と霊魔を包み込む。

 その煙に邪魔されて、秋の視界から香穂と霊魔の姿が消えた。

 香穂はそれを感じると、すぐに霊魔の耳にだけ届くように声を放つ。霊魔 ―― というよりは、その意識下にある悠奈に向かって。

「あの写真の男に会わせてあげてもいいわよ」
 その言葉に一瞬、霊魔の顔に動揺が走ったのが香穂には見えた。けれど、すぐに怒りを込めた鋭い光がその目に浮かぶ。

「なんのことだっ、ふざけるな!」
「誰もアナタには言ってないけどね。どうする、悠奈。貴女次第よ」
 霊魔を無視しきって話しかける香穂に屈辱を覚えながら、うっすらと微笑みを浮かべる。
「悠奈は私でもあるんだ。長い間、彼女の元で力を溜めてきた私は、今日やっと解放された。同時に悠奈の意識は消した。必要ないからね」
 勝ち誇ったように霊魔は笑い出した。
 それでも香穂は無視して、わずかに冷めきった、どうでもよさそうな口調に変えて訊く。
「もし、貴女が彼に会いたいと言うなら、人間として会わせてあげる。でも、このまま霊魔の意識に負けるなら、私は『精霊使い』として無に返すだけよ?」
 香穂がそこまで言いきったとき、煙がゆっくりと晴れていく。

 「ムダだというのが解らんのかっ?!」

 怒りとともに力を放出しようとした霊魔に、ふと異変が起きた。
 手の平に込められていた力の球が消え、金縛りにあったように動けなくなる。

 「なっ…なぜ、」
 霊魔の頬を涙が伝った。怒りに染まっていた顔に、どこか悲しげな表情が浮かぶ。
 香穂はそこに悠奈の意識と答えを感じ取った。

(もともと、そうするつもりだったけどね ――― 。)
 それでも本人の意思があるとなしでは、演出が変わってくる。
 どこか嬉しそうに、香穂は呪文を口にのせる。

≪闇の精霊よ。我が祈りにて。風の精霊とともに魔を消し去りたまへ≫

 一陣の風が鋭く、悠奈に襲い掛かる。それは悠奈の腹部を貫いていった。

「ギャァアアア ―――― ッ??!!!」

 悠奈の身体から吹き飛ばされた霊魔が、そのまま風に食いちぎられて、消えていく。風の精霊が悠奈の中から霊魔を取り除き、闇の精霊が同時にその魔を無に返した。

 自らの身体を見下ろして、呆然と佇む悠奈は、呟く。

「わ、わたし……? 終わったの……、」
 ホッと、安堵するように息をつく悠奈に鋭い声で香穂は「まだよ」と、告げた。
 その場にいた全員が終わったと思っていたのか、香穂の言葉に不思議そうな顔をして、視線を向ける。

「約束は守らないとね」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、香穂はひとつの呪文を口にした。

≪光の精霊よ、我が声を聞け。今ここにある霊に光を授けんことを≫

 香穂が唱え終えると、ある一箇所に光が集まった。
 徐々に浮かび上がってくるその姿に、悠奈は叫んだ。二度と呼べないと思っていたその名前を。

「真一さんっ!」

「幽霊?!」

 同時に美奈子が叫んだ。香穂は人差し指を当てて、美奈子に厳しい視線を送る。雪広が慌てて美奈子の口を手の平を押さえた。

 真一、と呼ばれた男は優しく微笑みながら、悠奈に手を差し伸べた。

『一緒にいこう。君は十分、苦しんだ。もう、心配はいらない』
 聞き慣れたその優しい声に、悠奈の瞳には涙が溢れる。
 真一の目を見つめながら、悠奈は首を横に振った。

「行けない…! 私はっ、たくさんの人間を殺してきたのっ! 真一さんと同じ場所になんか行けるわけないっ!!」

 苦しそうに悠奈は顔を背ける。
 ぽんっと悠奈の肩を叩いて、香穂は優しく聞こえるような口調で声をかけた。
「大丈夫よ、貴女が殺したわけじゃないもの」
「そうだよ。それに貴女はもう随分と苦しんできたんだろう。きっと、彼の手を取っても許されるんだよ」
 微笑みながら言う秋の言葉は、真摯に響いて。
 本当に何もかもが許されるような気になる、と香穂は思わず苦笑する。
 美奈子や雪広までが、伝わってきた彼女の苦しみを感じ取ったのか、温かい笑顔を浮かべていた。

『さあ、悠奈 ――― 』
 促す真一の手に恐る恐る悠奈は手を重ねた。すると、真一を包み込んでいた光が、悠奈をも包み込む。

「今度こそ、幸せに」
 そんな言葉が雪広の口をついて出ていた。

「ありがとう、……本当に、ありがとう」
 二人は何度も何度も頷いて、感謝を口にしながら光の中へ溶け込むように消えていった。

「よほど彼に会いたかったんだね。霊魔を封じ込めてしまえるくらい」
「そうね。それだけ ―――― 愛していたのよ」
 感慨深げに言う秋に同意して、香穂は頷いた。
 そっと、手を握ってくる秋に微笑む。
「帰ろう……」
 そう香穂は言うと、歩き出した。

 前を歩く香穂たちの後ろで、雪広が美奈子の肩に腕を回す。
「あんなに強い愛もあるのね」
 今までとまったく違う、真剣な雰囲気で美奈子は何かに浸るように言った。雪広も頷く。
 「たった一人をずっと、か……」
 「私たちも。永遠とは言わなくても、愛し合っている今は信じていたいわね」
 お互いの愛を、と微笑む美奈子を抱き寄せて、肩を抱く腕に力を込めた雪広は「そうだな」と笑った。


 暖かい空気に包まれて、香穂は屋敷の縁側に座っていた。
 優しく吹く風が、香穂の黒く長い髪を揺らしていく。

「それで、血を吸われた他の生徒たちはどうしたんだ?」
 秋を相手に将棋をしている佳人が、事件の詳細を聞いてふと疑問を口にした。
「悠奈の記憶を消すのと同時に、牙の跡は処理しておいたよ」
 気づかれないように、と香穂は肩を竦めて、答えた。

「そうか。まっ、なんにしろ依頼が片付いたということは、だ」
「片付いたということは?」
 秋が不思議そうに聞き返す。香穂は背中に悪寒が走った。

 「俺と遊べるってことだな。良かったよ、せっかく休暇とって楽しい計画を立ててきたのに、無駄になるかと思った」
 これが仕事では、冷静沈着やら。なにやら、と言われている人の言葉だろうか。頭脳明晰と言われているのはいいが、他に使って欲しいと、思いながら秋はこれから過ごす佳人との日々にため息をついた。香穂と二人っきりの時間が減ることは間違いないだろう。

「秋、何でため息をつくんだ? ほら、王手だぞ?」
「えっ、あっ……」
 詰まれてしまった駒を見ながら、またも秋はため息をついた。

「なんとも……、言い難いことね」
 香穂は将棋をしている二人には伝わらないように小声で呟いた。


】 【】