「何を見てるの?」
お風呂上りの秋が濡れた髪をタオルで拭きながら居間に入っていくと、ファイルのようなものを広げて、熱心に見ている香穂の姿があった。
「ほら、ここ ―― 」
ファイルには古い一枚の紙が挟まっている。
秋はタオルを肩に掛けて、香穂の傍に座ると指で示された場所に視線を向ける。
『町が消滅?! 魔の仕業?』
最初の方にはそう書かれてあった。
「なに、これ?」
「いいから、いいから」
怪訝に思いながらも、香穂に促されて先を読む。
『ひとつの町が突然消えた。隣町やその他、誰に聞いてもそこに初めから町など存在していなかったという。付き人の笠音に聞いても同じ答えしか返らなかった。だが、私の記憶では確かにそこに町はあったはずなのだ。しかし、どんなに調査をしても、原因について何一つわからなかった。』
「もしもこれが“魔”の仕業だとするなら、恐ろしいほどの力を持ったやつだろう」
そこまで秋が読んだとき、香穂が暗記したのか文章を幾分か冷たい響きの含んだ声で続けた。
「それは高魔以上 ―― 或いは“統貴一族”の誰かによるものかもしれない」
秋はそこに出てきた一つの名前に驚いていた。
「笠音って、もしかして佳和様のお母様の、あの笠音様?」
そう、と。香穂が頷いたところで、佳人が入って来た。
話し声が聞こえていたのか、訝るように口を開く。
「祖母がどうかしたのか?」
そう言いながら、秋が見ていたファイルを覗き込む。
「これは祖父が書き残した事件ファイルじゃないか。なんだ、今回の事件とこいつが何か関係あるのか?」
その言葉で、秋は香穂の言いたいことに気づいた。
『……町をひとつ消し去ってましたけど』
昼間、確かに香穂はそう言っていた。それがここに書かれてある事件だ。
秋が気づいたことを悟った香穂は、説明を加える。
「町を消したのはあの霊魔だけど、町の記憶を消したのは彼女を霊魔にした高魔の仕業ね」
「記憶を消す?」
不思議そうに訊く佳人に頷いて、香穂は視線を向けた。
二人の話しを聞きながら、秋がお茶を淹れはじめる。湯飲み茶碗から熱い湯気がたち上っていく。
「霊魔以下の力だと物質的なものを消滅させることはできても、例えば ―― ヒトの心の記憶を消すことはできないの」
熱気の伝わる湯飲みを二人の前に差し出しながら、秋が繰り返す。
「心の記憶?」
香穂は温もりの伝わる湯飲みを両手で包み込むようにもって、思案するように眉根を寄せた。
熱いお茶を少しだけ含み、唇を湿らせる。
「 ――― 例えば、何かしらの方法を使って、秋から私の記憶を消すでしょ? でも、秋は私に特別な感情を持ってる。だから、記憶を失くしたまま、普通の生活をするとしてもどこか心に異変を感じ取ってしまうのよ」
特別な感情っていうのは、親と子。兄弟、恋人 ―― 愛情とか。他にも、執着とかがその類にはいるかな。
「霊魔以下の力だと、そこまでするのはムリ。でもそれ以上の存在ならできなくはないから。もっとも、新城家の当主には効かなかったみたいだけど」
そこまで言って、香穂は小さく肩を竦めた。
その言葉にしみじみと佳人が嬉しそうな笑みを浮かべて言う。
「やっぱり、新城家の当主っていうのは立派だったんだな」
秋も目を輝かせて、賛成と頷いた。そんな二人に苦笑いを浮かべながら、香穂は「ともかく」と続ける。
「町を消滅させることで悠奈に“魔”の意識を植え付けることに成功したそいつは、面白半分に枷をつけた。“人”と“魔”の両方の意識を持つように。でも、今までは人としての意識の方がはるかに強かったみたいだから事件も起きなかったんだけどね」
植え込まれた“魔”の意識と元々ある“人”の意識。
想いが深いだけ、“人”が強くなるに決まってる。だからこそ、わざわざ植え込む必要なく、霊魔になれる。悠奈だって“魔”の意識を与えなくても、放っておけば“霊魔”になってたかもしれないのに。それでもするところが、“魔”の“魔”たる所以なのだろうけど ――― 。
そこまで考えて、香穂はだから結局は悪循環なのだと苦笑せざる得なかった。
「ところが、最近。悠奈は封印されていた前のヤツとは別の高魔と接触してしまったみたい。それで、」
「“魔”の意識が強まった……?」
香穂の後を次いで秋が言う。
頷いて、香穂は少しぬるくなったお茶を飲み干す。空になった湯飲みを秋に渡してから先を続けた。
「でも、彼女の中では二つの意識がまだ戦ってる段階なんだわ。最初の3人は“魔”としての意識が目覚めた途端で、制御が利かなかったから衰弱死になるほどの生気を奪ってしまったけれど、今はそうならない程度でなんとかすませてるって状態ね」
だから、理事長が説明した状態になるわけだ。
秋は納得したように頷いた。佳人も、なるほど。と感心したように口にする。
香穂は話しは終わったとばかりに立ち上がって、「おやすみ」と言い残して部屋を出た。その一瞬、秋だけにわかる合図を残して ――― 。
夜中の1時を回った頃 ―― 。
悠奈は寮の自室で、机に向かっていた。一枚の古ぼけた写真を手にしながら。
「……真一さん」
呟きが、涙とともに零れ落ちる。
あれからどれだけの年月が流れたのか ――― 。けれど、忌まわしい出来事がまるで昨日のように思い起こされ、そうして今も尚、苦しめる。
―――― …………
真一さん、私もすぐに傍に逝きます。
ナイフを片手に、幸せな日々を暮らしたこの部屋で。だけど願わくば。この命にかけて、彼を死に追いやった全ての人々に、呪いを。或いは復讐を。
永遠の苦しみを与え、死がつきまといますように。そうして ――― 、
「!」
ナイフを胸に突き刺した瞬間、そいつは現れた。
『お前の望みを叶えてやろう』
思わず聞き惚れるような、うっとりとした声でそう言いながら。
身体から流れる血に痛みを覚えるその前に、気がつけば血は消えていた。
『お前は霊魔となった。望むまま、この町をひとつ消すがよいよ』
何を言われたのかわからなかった。
だけど、心配いらないと ―― 。この町の記憶はヒトの頭の片隅からも消える、と。そう言われたとき、言われるまま町を消していた。
信じられなかった……。自分がそんなことをしただなんて。でも、そう驚く自分とは反対に、力を奮ったことに喜ぶ自分がいた。
これで復讐ができたのだ、と。
そのまま、その意識に身を任せることができていたら ――― 。今こうして苦しまないですんだのだろうか。
けれど、あいつは人間の意識を残したまま、膨らんでくる負の意識との間で苦しめと、嘲笑い、姿を消した。
それでも、まだ。あのときまでは我慢できた。あの、三人と旅行に付き添い、何かを封印しているかのようなあの石碑に触れるまでは ――― 。
その瞬間、負の感情が高まった。
衰弱死になってしまうほど三人の血を吸って。
それからは ―― 、夜中に血を飲まないと気が狂いそうになった。
今まではそれでも何とか、死ぬことになるほどの血を奪わずに抑えてきたけれど。だけどとうとう ―― 。
脳裏には昼間会った、少女の姿が思い浮かんだ。精霊使いだと名乗った、少女の。
「 ――― どうすればいいの?」
嗚咽に混じった呟きが悠奈の震える唇から放たれる。
「……悠奈、悠奈。起きてる?」
小さく叩かれるドアの音で、我に返る。
悠奈は慌てて頬を流れていた涙を拭いて、写真を引き出しの中に入れた。ドアを開けると、同級生の三村由里がほっと胸を撫で下ろして言った。
「よかった、起きてたのね?」
彼女は部屋に足を踏み入れて、突如、悠奈の前で両手を合わせた。
「お願い! 学校まで付き合って!」
前置きもなくそう言われて、悠奈は戸惑う。
落ち着いて、と声をかけて「どうしたの?」と訊いた。
「学校に大切なものを置き忘れてきたの。どうしても取りに行きたいんだけど、こんなに夜遅くにひとりで行くのは怖くて……」
泣きそうな声で言われて、悠奈は思わずため息をついた。
必死の様子は見てわかる。できるなら付き合ってあげたい。けれど ―― 。
悠奈は胸に手を当てた。
まだ、意識は自分の方が強い。
「一生のお願いっ!」
拝み倒すような勢いで由里が言う。
「うっ…」
「いいのね?!」
頷いてはいないが、悠奈が躊躇ったのを見て、由里は自分に良いように解釈すると『パッ!』と嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「よかった。やっぱり持つべき者は優しき友よね。話しは決まった! 早速、行きましょう!」
そう決め付ける由里に反論する気力は悠奈にはなかった。仕方ない、とため息をついて、とりあえず訊いてみる。
「それで、その大切なものって?」
寮母に見つからないために、悠奈の部屋の窓を開け、庭を通って出て行こうと企んでいる由里は、振り向くことさえせずに告げた。
「彼からもらった、写真入のペンダント」
その答えに、悠奈は無意識に自分の机の引き出しへと視線を向けた。
「……それは確かに大切ね」
悠奈は苦笑を零して、庭に下りて待っている由里の方へ足を踏み出した。